ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

桐野夏生さんが疑う「正義」

 朝日新聞に「コロナ後の世界を語る」という連載がある。昨日1月14日付の記事には台湾のオードリー・タンさん(台湾IT担当政務委員)のインタヴュー記事があった。台湾が感染拡大を抑え込めた理由を聞かれたタンさんは、台湾には「勝てないなら一緒にやろう」という考えがあり、「社会と行政と経済界との協力(全社会的なアプローチ)」と「対話(議論)」がポイントだと “自信“ をもって話していて、何ともうらやましい感じがした。

曰く、
「(社会のデジタル化に必要な条件として)社会や産業の革新を促し、議論の場を設けること。利害が異なる各界の人との議論を通じ、共通の価値観を見いだせる統治方法をみつけること。これまで政策決定に関与してこなかった人々や、デジタル技術を使うのが苦手な年配者、地方在住者や若者を巻き込むこと。……デジタル技術が人々を結びつけた時、意見の相違から憎悪が生じることがあります。言論の自由が保障された社会で、この傾向は顕著でしょう。コロナウイルスパンデミック(世界的大流行)になぞらえ、インフォデミックと呼びます。ウイルスのように感染していき、意見の異なる相手を人としてみなさなくなる。……私たちには、民主主義とは(民進党と国民党という)2大政党の争いではなく、多くの価値観を持つ人々が対話していくことだという考え方があったのです。……大切なのは意見の異なる相手の立場を理解しようとする気持ちです。台湾では使い捨てのプラスチック食器やストローの使用を一部で禁じています。環境意識の向上を受け、これらの製造業者も実は転換を望んでいます。業者が持つ技術を取り込めば環境循環型の社会を作れます。対立でなく対話によって共通の価値観を見いだすことが大事だと思います」

傷めなかった民主主義、抑えた感染 オードリー・タン氏:朝日新聞デジタル


 同じ連載の一カ月前の記事(12月15日付)には小説家の桐野夏生さんの寄稿がある。「……小説家という仕事は、それこそ「生産性」という意味で言えば、無駄な存在だが、違和感を糧として仕事をしてきた自分たちには、また別の感受性を培ってきたという自負がある。」という書き出しにひかれた。以下、その一部概要。

若い世代の取材に「なぜ許せぬ」桐野夏生さんが疑う正義:朝日新聞デジタル


 かつて文学は、その国家、その民族の、固有の悩みや苦しみを描き、その深い井戸を掘ることで、互いに共通する普遍性を確保することができた。だが、それは牧歌的と言えるほど、幸せな時代だったようだ。
 今や文学ですらも、世界で通用するためには、市場原理主義の洗礼を受ける。人種差別、民族差別、性差別、児童虐待、あらゆる種類のクレームを避けるための検閲が働き、表現は刈り取られて、滑らかになった美しいものが供される。しかし、棘(とげ)を内包しないつるつるの顔をした文学は、人の胸を打つことができるのだろうか。
 そして、つるつるの美しい顔は、同じ表情、同じ声で、あらゆる場所で「正義」を語り始める。
 「正義」は、あらゆる人間をねじ伏せることのできる、便利な言葉だからだ。

 ジャン・バルジャンの昔から、罪と罰は、人間と社会との大問題だったはずだ。
………正しき者、正しき行いを描く作品には、確かにカタルシスがある。だが、人間の行いは正しいことばかりとは限らない。人間は愚かで、間違いを犯す。罪を犯さざるを得ないほど人間が追い詰められる、そういう状況に想像が及ばないとしたら……。
 正しき者、正しき行いを描く作品には、確かにカタルシスがある。だが、人間の行いは正しいことばかりとは限らない。人間は愚かで、間違いを犯す。
 罪を犯した人間は主人公の価値がない、とすれば、それは虚構における優生思想ではないか。
 その「正義」は、想像力の及ばないところ、いや、無縁のところに堂々と鎮座して、周囲を睥睨(へいげい)している。まるで、自分が一番偉いかのように。

 『夜の谷を行く』という連合赤軍事件に関わった女性のその後を描いた作品について、雑誌の取材を受けた。
 インタビューに来た若い女性が、「なぜ、彼らは罪を犯したんですか? 何で法律を犯した人を書くのかわからない」と言う。
 その答えは、私にもわからない。わからないことだらけで、闇の中を進むのも、また小説を書くことなのである。そして、小説は正解を出すものでもない。その小説世界に生きる人間を描くことしか、できないのである。
 おそらく、この女性のような若い世代には、「思想」という概念すら消えてなくなっているのだろう、と思うしかなかった。イデオロギーが古びて消えてなくなっても仕方ないが、理念までが消えてしまうとしたら、人間には何が残るのか、逆に知りたいと思った。理念に突き動かされて、失敗や罪を犯すのも、人間の姿なのだから。
 正義と悪、右と左。二元論で語られるほど、人間は単純ではない。むしろビトウィーンな存在なのに、他人の曖昧は許すことができないらしい。その不寛容は、いったいどこからくるのだろうか。

 最近、連合赤軍事件の永田洋子の弁護をした、女性弁護士さんの講演を聞く機会があった。その女性弁護士さんは、おととし虐待されて亡くなった結愛ちゃんの母親の弁護も引き受けておられる。
 結愛ちゃんの母親は、毎日、夫に正座させられて、何時間も執拗(しつよう)な説教を受けていた。叱責(しっせき)され、反省文を書かされる日々が続くと、自信をなくして混乱し、どうしたら叱責されずに済むかしか考えられず、自分がおかれた状況すらもわからなくなったという。
「50年ほど前に、若い人たちが、同じように仲間を苦しめ、死に至らしめたことがありました」
 弁護士さんの言葉は、私の心に沁(し)みた。それはもちろん、連合赤軍事件のことである。連綿と続く、人間の愚かさ。そして、罪。
 そこには、「犯罪」という言葉だけでは、持つことのできない事実の重みがあり、手ですくおうとしても、掌(てのひら)からこぼれ落ちてしまう、水のように形を留めない事実の儚(はかな)さがある。
 その重さや儚さを積極的に知ろうとしないと、人々は何度も同じことを繰り返すのかもしれない。だから、事実には普遍性があると、私は信じているのだ。事実を単なる「犯罪」という言葉で片付けて、慮(おもんぱか)ろうともしない人々は、傲慢(ごうまん)で不寛容だ。

 たったひとつ、彼らの振りかざす「正義」と戦う方法がある。小説を読むことだ。
 小説は、自分だけの想像力を育てる。言葉は目に見えないものだから、読者一人一人が想像することでしか、その小説世界を堪能することはできない。従って、個々人が頭の中で結ぶ像は、それぞれ違っているはずである。そこが、ひとつのイメージを付与するビジュアル作品と違うところだ。
 他者と違うことが他者を認める礎となり、他者が取り巻かれている事実を慮る力を養うのである。それが想像力という力だ。
 不寛容の時代、自由な小説から力を得てほしい、と心から願うものである。



 社会に「寛容さ」がなければ「対話」はできないだろう。冒頭のオードリー・タンさんの “自信” には台湾社会の「度量」を感じる。他方、日本の場合、政治家(それも政権党の政治屋)にだけはやけに「寛容」なのは何ともはや、と苦笑してしまう。


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