ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

「論破」の文化 

 1990年代であったか、学校の授業にディベート(討論ゲーム)を導入することが一時流行したことがある。「流行」というほど一般化したわけではないが、小生も実践例を真似て、試しにやってみた。「原発の是非」とか、「死刑制度」とか、ある論争的テーマについて3人組が二手に分かれて賛成・反対の立場で討論し、あとの生徒は両サイドで見物して、どちらが「説得的」「優勢」だったか判定するという流れで、生徒には非常に好評だった。確かに、普段の座学中心の授業では見えない生徒の意外な一面がわかったりして、おもしろいところもあるのだが、その結果、議論が深まるかというと、残念ながらそうとも言えない。こちらの誘導(助言)やメンバー(の力量)次第とはいえ、やはり声の大きい方がどうしても「優勢」に見えてしまうし、討論の「内容」ではなく「勝負」にこだわれば、ますますその傾向が強まる。事前に当該グループの下調べに付き合いながら、少しずつ改善したいと思っていたが、あれこれ時間をとられるうちに他の仕事にしわ寄せがいくことが多くなり、3年くらいやって諦めてしまった。

 今でも討論の手法は授業に取り入れられているはずだが、よい討論が成立するには、個々が豊富な知識を備えていることはもちろん、「自由」に発言ができること、発言者が「平等」であること、互いに一定の「信頼関係」があることなどが欠かせない。しかし、日本の政治や教育によい討論の文化が根付いているかというと、なかなかそうとは言い難い。「ご飯論法」なる論点外しが横行する今の政治家やメディアのやりとりを見ていると、それもむべなるかなと思える。相手を言い負かすことを最終目的とし、それが「全体の利益」にならないような討論は、単なる「口げんか」だろう。これでは「反論」が「悪口」や「中傷」ととられかねないが、この国では、現実にはこうした傾向がさらに進んでいるように見える。

 12月6日付朝日新聞の記事に社会学者の倉橋耕平氏のインタヴューがあり、興味深く読んだ。相手を言い負かす「論破」は男性性に根ざし、「男らしさをテストする」というカルチャーの一つで、「歴史修正主義*」の本の購読者には高齢男性がとても多い、という話は考えさせられた。聞き手は田中聡子記者。
* 「修正」というのは主観的な物言いで、客観的には「改竄」や「捏造」が多い。だから、この言い方には異議があるが、これで通ってしまっている面もあるので、一応このまま使う。

歴史修正主義を扇動した「論破」文化 感情に訴える言葉の危険性:朝日新聞デジタル

SNSなどで顕著に見られる「論破」のカルチャーは、ネットによって新たに生まれたものではありません。

別次元のものを同じ土俵で議論
 その兆しは1980年代末から始まった討論系のテレビ番組に見られます。討論番組では、専門家ではないコメンテーターなどが議論に参加します。視聴者は、出演者が政治家や専門家をたじろがせる様子を面白がりました。同じ時期、ディベートや説得力を重視した自己啓発本がブームになりました。
 こうした流れの中で「歴史をディベートする」ことがはやり、歴史修正主義運動の潮流となっていったのです。
 そもそも歴史とは、史料をもとに専門家が論じるものです。ところが、ディベートの土俵に載ると、研究者が歯牙(しが)にもかけない歴史観が、対抗する言説であるかのように格上げされます。長年かけて培った先行研究の蓄積がゼロにされてしまうのです。日本でも、海外でも、歴史を否定したがる人たちが議論を好む理由は、ここにあります。
 こうしたディベートの特性を利用している一人が、橋下徹さんでしょう。「○○か、それとも○○か」という二択をつくるのがとてもうまい。物事を捨象して議論のフレームを単純化します。十分な議論ができる方法ではないですが、発言を短く切り取るテレビやネットとは相性がいい。

 多くの人が、この図式を無意識に受け入れがちです。学生と話していると、別次元のものを同じ土俵で議論することが多い。たとえば、「女性専用車両があるのに男性専用がないのはよくない」と言ってくる。「男性専用車両」の発想は、性被害から守るための女性専用車両とは、全く次元の異なるものです。女性専用車両の背後に存在する差別や権力の不均衡をゼロにして議論することが、平等だと勘違いしているんです。
 論破カルチャーの問題点は、社会には権力の勾配がない場所などないのに、それを無にすることです。そこにはびこっているのは「偽の等価性」です。
 論破は、男性の「男らしさをテストする」というカルチャーの一つでもあります。ディベートの本の著者はたいてい男性ですし、歴史修正主義系の本の購読者には高齢男性がとても多い。言い負かすことで、既存の権威を蹴り落として権威を手に入れたい。そんなマッチョな権威主義がそこにあります。

「日本に不都合な歴史を認めない」ための議論
 前提をゼロにしたディベートでは、専門家は弱い立場に置かれがちです。研究者は蓄積されたエビデンスをベースにした話を中心とするため、感情をないがしろにしているように見える時があります。一方、非専門家はいまここにある一般人の感覚を重視した持論を述べ、感情に訴えることもできる。専門家がデータがそろわないために慎重に断言を避けていると、大きな声で感情に訴える言葉を述べた方が共感され、論破したかのように見えてしまうことがあります。近年の原発や新型コロナをめぐる議論でも、同じことが起きていました。
 ディベートの場で複雑な現実や分からなさを丁寧に論じると、「何が言いたいのか分からない人」に見えてしまいます。でも歴史の探求では、史料から分かることの限界や二項対立にはならないことがある。それなのに、歴史修正主義者が議論を単純化するのは、歴史の探求が主目的ではないからです。「日本に不都合な歴史を認めない」という目的のために論じているから、たった一つの見え方で全てを論じるような単純化ができるのです。残念ながら、論破を目的としている相手とは、誠実な議論は成立しません。
 歴史修正主義者の主張は、学問のレベルではすでに検証済みで、否定されています。必要なのは歴史学者の反論だけでなく、社会の人権意識の向上です。歴史修正主義者が標的にしているのは、主に南京虐殺と「慰安婦」です。ここにはアジア蔑視とミソジニーがある。歴史を否定することと差別とは、密接な関係があります。ヨーロッパ諸国がホロコーストの否定をヘイトスピーチ関連法の中に位置づけているのは、そのためです。
 人権意識が欠けたままでは歴史修正主義の蔓延(まんえん)は止まらない。歴史修正主義の本や歴史をネタに「論破」したい欲望、それ自体を問い直さなければなりません。

 かつて多くの歴史研究者は「こんなばかばかしい話にいちいち付き合っていられますか」と歴史修正主義者たちの主張を半ば放置してきたが、そのうちに彼らの言説が勢いづいてくると、象牙の塔に籠もって研究だけしていてはダメだと反省し、研究成果を世に還元する意味でも、彼らに逐一反論・反証することが大切だと思い直した。しかし、もし社会に相応の「力量」があれば、わざわざ研究者が学問的に反論しなくとも、その荒唐無稽に気づいてもよいレヴェルの話がけっこう多い。この国の社会が、ある程度、自由、平等で、一定の信頼関係に支えられ、討論が成立する社会であれば、「淘汰」されてもおかしくないはずのことだと思う。

 なお、歴史修正主義者の「意図」については、以下の2019年11月27日付の山崎雅弘さんのインタヴュー記事を参考に。

歴史修正主義者が歴史を書き換える「本当の目的」/山崎雅弘インタビュー - wezzy|ウェジー




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