ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

政治家のスキャンダルとお国柄

 元英国首相のトニー・ブレアさんの回顧録を読んでいます。上巻を読み終えて、一昨日から下巻に入ったのですが、なかなかおもしろい話がいろいろと書かれています。「自伝」に書いてあることをそのまま真に受けてはいけないと言う人もいますが、ない「事実」は書けないと思うので、多少の誇張や脚色があるとしても、まあだいたいは本当の話に近いものと受け止めています。それにしても、在任当時の側近や大臣たちの言行や自分の印象をかなり開けっぴろげに記していて、「まだ存命中の人も多いだろうに、大丈夫なのかなぁ」と、読んでるこちらの方が心配になります(笑)。
 これまで読んだ範囲でも、興味深い箇所はいくつもありますが、こうして筆まかせに何でも書けるのは、もちろん本人の性格もあるでしょうが、それを許容する国民性もあるのだと思います。中で、政治スキャンダルの話がいくつも出てきますが、とりわけブレア元首相の息子の不祥事が知れたときの英国民の反応が愉快です。首相の息子のスキャンダルと言えば、本邦でも、例えば官邸忘年会などで、息子のふるまいと首相の「親バカ」ぶりが世間から批判・糾弾されたことがありました。岸田首相もそれゆえに事実を隠したかったでしょうし、その心情はブレアさんも同じでしょう。しかし「結果」は、ある意味対照的で、ブレアさんの場合は意外な方向に転じます。少し長くなりますが、当該箇所を引用してみます。( )は小生による補足です。

……(息子の)ユーアンは16歳で、GCSE(英国の学位認定制度)を終えたばかりだった。正直に言って、そして私がこの話をするのを彼が気に留めないのなら、彼の成績は大いに祝福すべきものではなかった。それでも友人のジェームズ――好青年で2010年の総選挙で労働党候補になった――と外に出て二人で祝おうと決めた。
 7月6日の夜、11時半ごろのこと、私は眠ろうと階上に移動していたが、ふと、ユーアンはどうしているかのぞいてみようと考えた。彼はその時間には自分の部屋に戻っているはずだ。そう思ったのは間違いだった。自分の部屋にも住居部分のどこにも見当たらない。
 (妻の)シェリーは彼女の母と(息子の)リオを連れて、短い息抜きにポルトガルに出かけて留守だった。
 いったいユーアンはどこにいるのだ。わかっているのはジェームズと外に出たということだけだ。ジェームズの母親に電話して、彼の電話番号を教えてもらうと、ジェームズに電話した。彼の話は要領を得なかったが、大筋はユーアンがレスター・スクエア(ロンドン中心部の広場)の方角に向かってふらふら歩いていったのを見たのが最後だということだった。
 私はパニックになった。首相であることのいくつかの異常な難題の一つはこうしたところにある。ユーアンを自分で探しにいきたかった。親なら誰でもそうするだろう。飛び出していって急いで探し回る。だが首相である私がレスター・スクエアまでぶらぶら出かけて、真夜中の民情視察をすることなどできるわけがない。官邸の入り口にいる警察官に事の次第を説明し、あとは彼に任せた。いつも頼りになる男として登場する役者よろしく、彼はわかりました、探してきますと宣言した。
 続く数時間は必死だった。心配のあまり私は、翌日非常に大事な行事が控えていることを一時忘れていた。イースト・サセックスの都市ブライトンに出かけて、まずイギリス黒人教会大会を訪問し、次にクエスチョンタイム(下院議員から質問を受ける)の特別版をやる予定になっていたのだ。それは私が主役で、あろうことか法と秩序、反社会的行為が中心問題だった。
 あの素晴らしい官邸の警察官はなんとかユーアンを探し出し、午前1時半ごろ、惨めな様子のユーアンを連れて現れた。明らかにまだ酔っ払っていた。レスター・スクエア地下鉄駅の近くで未成年飲酒、公衆の場での酒酔いのかどで逮捕されたのだった。状況とタイミングは抜群に悪かったと言っていいだろう。
 その晩は一睡もできなかった。2時半ごろ、ユーアンは私と一緒に寝たいと言い張った。長々と悲しげな謝罪を言い続けるかと思えば吐くの繰り返しだった。私は彼が可愛かったし、不憫にも思った。けれども、もし警察の留置場が空いていたら、そこに移すのに賛成しただろう。
 そうこうしているうちにとうとう朝になった。ニュースはユーアンが官邸の入り口に連れ戻されたころに広がった。警察署はいくつもの見事で必要な目的に奉仕するが、秘密を守ってくれる場所ではない。この問題をメディアがどう扱うかについてアリスター(報道担当補佐官)と話さなければならなかった。彼はこの事件を愉快きわまりない珍事ととらえた。クエスチョンタイムの出来を左右する非常におもしろい話題になると考えた。……私はすっかり上の空だったのではないかと恐れる。睡眠不足ならなんとかなるが、まったく寝ていない場合はどうにもならない。何かしらの手段――おそらく鉄道――でブライトンに行き、用意された演説(ペーパー)を握りしめ会場に赴いた。……
 私が入っていくと、歓迎のどよめきが起こった。もちろん皆がユーアンの一件を知っていた。それは大ニュースだった。こんな表現を許してもらえば、それは彼らにとってこのうえない楽しい出来事だったのである。総理大臣の息子が失態を演じて、悪魔のアルコールに負け、正しい道を踏みはずした。そしてその総理大臣が自分たちのところにやってきているのだ。そう、ご想像いただけると思う。
 ……一同は祝福し、祈り、主の名を唱えていた。全身霊感に満ちた親切なリーダーの指示で皆が手を握り、私と私の家族とユーアンのために祈った。たしかにユーアンは酒を飲んだし、飲むべきではなかったが、私は一瞬、これはちょっとやりすぎに
見えると言いたくなった。彼は立派な犯罪者もしくはその類なのに、まるでそうではないかのような扱いだった。
 しかし、それは口にしたとしても少しも問題にされなかっただろうが。彼らにとっては、少年は一度失われ、そして見出されたのだ。それだけが大事なことだった。
 それはすっかり私を目覚めさせた。私は用意したスピーチを傍らに捨て、その場の精神にすっかりのめり込み、私が与えられたのと同じくらいのものを皆に与えたと告白しなければならない。私は恥も忘れてテレビ伝道師のように壇上ではしゃぎ回り、多少大声をあげ、叫び、大いに楽しんだのである。
 クエスチョンタイムのためのスタジオに着いたときには、私は主の精神に酔ったように戦闘的になっていた。最初の質問者が、息子の愚行は私が法と秩序に関心があると主張していることを嘲笑うものではないかといやなことを聞いたとき、私は事実上彼を殴りつけ――少なくとも言葉で――そしてその調子で続けた。「あの宗教集会で、彼らはあなたのお茶に何を入れたんだい?」とアリスターがあとから聞いてきた。「毎週あそこに行ってもらうべきだね。でも考え直したらそうでもないか」とつけ加えた。
 帰る途中、あるパブに立ち寄ったところ、地元の人たちが歓待してくれた。皆が完全にユーアンの肩をもってくれ、パブのお客たちがかわるがわる無為に過ごした自分たちの若きころの話をするのを聞いたのだった。このようなとき、イギリス人は非常に礼儀正しいのである。……
    (石塚雅彦訳『ブレア回顧録 上』、日本経済新聞出版社、444-447頁)
 

 黒人教会に集まった人たちも、パブにいた地元の人たちも、おそらくは内心ニヤニヤ笑っていたでしょう。でも、これはちょっと意地悪くても、悪意に満ちた笑いではないはずです。小生も、学校という特殊な社会空間にいた人間ですので、わかる気がします。偉い人、というより、ふだん偉そうにしている教員がずっこけると、子どもたちは喜びます(おとなの世界だってそうです)。その笑いには「普遍性」があると思います。もっと言うならば、ずっこけることは必要だと言っていいくらいです。でも、わが国のある種の世界ではそうならない、あるいは、そうさせない力が働く。――それがこの国の社会の風通しを悪くし、総体的にせよ、あるいは部分的にせよ、息苦しくしている原因ではないかと思うのです。




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政倫審を見て 訂正

※まちがいがあったので訂正しました
 むかし数学の集合のところか何かで「命題」の真偽とか、「十分条件」・「必要条件」というのを習いましたが、今考えると、別に数学でなくともよかった気がします。数学が苦手な(といより単にこういう形式論理が苦手な)小生などには、いつも数学の延長のような感じが残ってしまって、頭が混乱してしまうのですが、AならばBが成り立つとき、AはBであるための十分条件、BはAであるための必要条件……という話のようですから、例を考えれば、「千葉県に住んでいる人は日本に住んでいる」という文(命題)が嘘でなく成り立つとすれば、千葉県に住んでいることは日本に住んでいることの「必要十分条件」ではありますが、日本に住んでいたとしても、千葉県に住んでいるかどうかはわかりませんから、逆は成り立ちません。千葉県< 日本はあり得ても、千葉県 > 日本はあり得ないわけです。※すみません、逆になってました。前後も含めて訂正しました。
 でも、それがわかって何の役に立つのか、よくわからないまま数学の世界とはサヨウナラになってしまいました。しかし、最近思うに、政治の世界では、こういう数学というか論理学の話がねじ曲げられることが多い気がしています。「十分条件」が「必要条件」のように(故意に)変換されたり、逆にすると成り立たないこと(命題)を通そうとしたり。先の例で言えば、「日本に住んでいれば千葉県に住んでいるのと同じだ」というのですから、それは無茶というものです。
 
 昨日も政倫審がありましたが、裏金議員衆の各自が疑惑を晴らす弁明の場であるのに、「何も知らない」「自分はかかわっていない」と(結論を)いうだけで、たとえばキックバックの再開が決まったとかいう安倍派幹部の会合について、自分が参加していながら具体的な説明をほとんどしないのですから、余計に怪しさが増すばかりです。世耕氏などは、先週の政倫審で、自分は検察に呼ばれていろいろと聞かれたが結局立件はされなかった、「不起訴、嫌疑なしだから真っ白」だなどと発言していて、驚きました。“証拠不十分で不起訴” という話が、氏に言わせると「真っ白」になってしまうのです。
 上の話で言えば、「真っ白な人ならば不起訴である」は成立するかもしれませんが、「不起訴の人ならば真っ白である」は成立しないでしょう。警察や検察も忙しいので、世の「犯罪行為」をすべて立件する余裕がないことくらいは誰でも理解できます。たとえば、制限速度40㌔の道路を50㌔以上で走っている車の運転手をみんな捕まえようとしたら、警察官の数を10倍に増やしても全然足らないでしょう(そもそも普通の幹線道路を50㌔くらいで走っている車を「違反」だ「犯罪」だと言って取り締まることに治安上大きな意義があるとも思えませんし)。小生も以前に盗難にあって警察に相談に行ったことがありましたが、(被害額が少な過ぎて?)被害届を出すまでには至りませんでした。要は、世の中に検察から立件されない「違反行為」はいくらでもあるわけで、立件されていないからと言って「真っ白」という強弁は通らないでしょうということです。
 自民党の裏金議員たちの多くは今回ほとんど立件されていません。個々の裏金の額に差はあるものの、決して小さな額ではありませんし、立件しないこと自体も問題ですが、それを「根拠」に、世耕氏と同様みんな「真っ白」だと言ってよいのか、議員たちもみんなそう思っているのか、ということです。
 「悪いことをしても捕まらなければいい」式の処世術は安倍政権から始まった自民党議員の悪しき「風習」です。それだけにとどまりません。実は裏で、捕まえる側(検察)の人事にまで手を回して、自分たちは「絶対に捕まらない」よう画策をしていたのですから、世耕氏の強弁など、何ともはやの話でしょう。自民党を「犯罪者集団」のように言うのは言い過ぎでしょうけれど、自浄できなければ、そうみなされてもしかたがありません。それくらい今の自民党(中枢)は悪事にはまって抜け出せない感じがします。
 こんな醜悪な状況を毎日見せられても、世論調査をすると20%くらいの人は自民党を支持すると答えるわけですから、これは「岩盤層」というか、もう信仰のレベルでしょう。選挙が近づくと、また、体制選択の選挙だ、とか、自民党が潰れたら日本も潰れるとか(「私がいなければ日本は立ちゆかない」と言ってた幹事長もいましたが)、そんなようなことを言っとけば有権者はビビって?自民党に投票すると思っているのでしょうか。20%の方々には自民党と「心中」することよりも、国の未来と子どもたちのことを考えてほしいです。



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トニー・ブレアの回顧録より

 X(Twitter)を眺めていたら「過激ダンスショー」というTrendが立っていて、何のことかと思って見てみると、自民党青年局の醜態を咎める記事録でした。これは産経新聞の記事に端を発しているようですが、確か3月8日の今日は「国際女性デー」のはずです。「出来事」自体は去年の11月の話のようですが、このような日にこうした記事をぶつけてくるのが産経だと知って、何とも言えぬ気分になりました。
<独自>自民党青年局近畿ブロック会議後の会合で過激ダンスショー 口移しでチップ渡す姿も 費用は党が支出 - 産経ニュース

 記事に会を企画運営した県議の「釈明」がありますが、このダンスショーのどこが「多様性」なのか意味不明な上に、そもそもLBGTの権利はおろか夫婦別姓も容認できない党の人間に「多様性」などと言われると、笑止千万、かたはらいたし、です。個々の議員の意見までは知りませんが、党全体としては自民党にとって「多様性」という語は、他人や他団体の考えや価値観を尊重するのではなく、自分たちの言い分を尊重しろ、批判するなという意味の方便でしかありません。裏金問題といい、このような下劣なことができてしまうのは、恥じる気持ちがないというよりも、精神の深い部分がシニシズムに蔽われているからでしょう。石原伸晃が言ってましたよね。(世の中)いくらきれい事を言ってても、「最後は金めでしょ」と。要は、自分の利得や出世に興味はあっても、社会とその未来に希望をもっていないから、こういうことができるのだと思います。自己顕示欲はあっても、真の自信(プライド)はないのではないか――でも、そんな議員は、こちらにとっては願い下げです。

 2007年までイギリスの首相だったトニー・ブレア回顧録を読んでたら、こんなことが書いてあります。

……私は人生のいろいろな局面で多くのことを学んだ。政策や意思決定の類いの話をしているのではない。……言いたいのは、人間としてどう人生に取り組むか、ということである。私の息子のリオ(執筆当時11歳)ほどの年齢の生徒たちに話をするチャンスと栄誉を与えられたときに、彼らにぜひ理解してほしいと思っていることがある。自分のような人間――首相を10年務めた――は、出来合いでもなければ運命づけられてそうなったわけでもないということだ。信じられないかもしれないが、私もかつては彼らと同じような子供だったと説明する。成功とともに、実現しなかった夢、挫折した希望、失望に終わった期待などが皆と同じように入り交じっていたということだ。私は成功した人を見てこう考えたものだった。自分にはあの人のようになれる確信はない、と。自信を失うこと、失敗すること、二番目になること、人を失望させ、自分を失望させることがどんなことか知っている。成功は、生まれつきの才能、勤勉、判断、そしてそう、途中で多少の幸運に恵まれることの混合である。すべての人がトップにまでのぼれるわけではない。のぼりつめた人ですら、そこでつねに満足を見出すわけではない。
 とはいえ、一つ学んだことがある。消極的な心の持ち主には何一つやってこないということだ。……毎日を自分の祝福を数えることによって始めてほしい。悲惨なこと、憂鬱なこと、悲劇的なことを考えたり経験したりする時間はたくさんあるだろう。どんな人生にも、そうした感情は存分にある。しかし、人生は贈り物だということを理解しなければならない。人生にこのような心構えで取り組めば、どれほど暗い日々に見えようとも、一条の光をつねに見つけることができる。そしてその日に向かって動くことだ。
……われわれに必要なのは、自信を回復すること、困難な問題に直面しても、それを克服する能力と勤勉さが備わっているという自己への信頼を取り戻すこと、それに尽きるのである。
                    (『ブレア回顧録』上、42-43頁)

 何度でも書きますが、自民党のみなさん、子どもたちが見てることを忘れないように。
 

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