ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

市場はいつか牙をむく

 国交省の統計不正に関する識者のコメントを最近の朝日新聞から拾ってみた。

 『アベノミクスによろしく』(集英社インターナショナル 2017年)の著者で弁護士の明石順平さん。

 統計の基になる「生データ」を消しゴムで消す。まさか国の重要な統計でそんなことが起きるとは思わなかった。データは政策をつくる上の足腰であり土台のはず。それが崩れれば、議論が成り立たなくなる。……2018年には今回と同じく基幹統計である「毎月勤労統計」の不正が明らかになった。重大な点は、以前より平均賃金を高く算出する方法に切り替えたのに、さかのぼって計算し直さなかったため、18年だけ賃金が急上昇したことだ。これでは統計としての連続性が守られない。
 国土交通省会計検査院の調査を受け、都道府県に書き換え作業をやめさせたという。この時点でやるべきは謝罪と、さかのぼって正しいデータで計算し直すことだった。だがその後も自ら書き換えを続けた。
 それは、やめたらGDP国内総生産)にマイナスの影響が出てしまうと思ったからではないか。統計を実態より、よく見せようとしたのではという疑念は、厚労省のときも今回も共通する。手法を除けば、「またか」という印象だ。
 なぜ、書き換えや二重計上をしたのか。官僚にメリットはないはず。誰が指示をして、誰にメリットがあったのか。うやむやにせず、動機にスポットを当てて解明してほしい。

まさかとまたか 「アベノミクスによろしく」の著者が語る統計不正:朝日新聞デジタル

 著書『官邸は今日も間違える』(新潮新書 2021年)を出したばかりの元厚生労働省官僚・千正康裕さん。

霞が関で管理職をしていた自分の感覚からすると、昔から続いてきたおかしなやり方を改めるのは難しい判断だとも思う。直すときに、ものすごく仕事量が増えるからだ。
 誤りを認めれば、過去の分を直すのかどうか、どこまでさかのぼるのかを意思決定し、オペレーションも考えないといけない。国会やメディアへの説明にも大変な労力がいる。
 2019年の初めに厚生労働省の毎月勤労統計の不正が大きな問題となった時は、省内の大講堂に机を並べ、色んな部署からかき集められた人たちが対応にあたった。一方、ほかの部署は人が減らされた中で、重要な政策課題に取り組まなくてはいけない。
 霞が関の官僚は、すでにギリギリの状況で働いている。当時、私は統計とは関係のない部署にいたが、組織が崩壊しかねないくらいの業務を抱え、私自身も含めて体調を壊す職員が相次いだ。
 誤りは分かった時点で正さなくてはいけない。ただ、十分なマンパワーが用意されなければ、影響の大きさを考えて、見直しに動くことをためらう人が出てきてもおかしくない。
 いまは、国交省の職員が不眠不休となっているだろう。問題を起こした国交省が「人手が足りない」とはとても言えないだろうが、省庁の壁を越えて対応にあたれる仕組みをつくる必要があるだろう。
 誰に責任をとらせるのかという問題もある。厚労省の例もそうだったが、急におかしなことをしたというより、過去の不正をずっと引きずってきたという話だ。責任をとるべきなのは、過ちに気づいたのに正さなかった人たちだろう。
 問題に気づいて正した責任者は、人事上の不利益にならないようにすることが必要だ。そうしないと、不正に気づいても「1、2年後の人事異動を待ちたい」という心理が働くこともあるだろう。
…<以下はコメントプラス欄の記述>
霞が関に決定的に欠けているのは、組織の経営という視点だと感じている。
そこを解決しないと、霞が関が持っている優秀な頭脳や機能は国民のために使われない。そして、霞が関は倒産がないので自律的に変わりにくい。
では、そのかわりに何が霞が関を変えるのかというと、外圧・世論である。
役所は、民間企業の比にならないほど、民主的なガバナンスの中で仕事をしている。
メディアや国民が、霞が関の経営者としての視点を持てば、必ず行政はよくなると信じている。

役人が誤りを正せない心理とは 元厚労官僚が語る統計不正:朝日新聞デジタル

 東京大学教授で、2019年、厚労省の統計不正問題を検証する専門委員を務めた川口大司さん。

 …各省庁が表ではルールに従うふりをしながら、裏ではルールを逸脱しているとなると、中立性が保てていないことになる。直接的な影響は軽微だったとしても、「蟻(アリ)の一穴」のように、統計の制度自体が崩壊してしまう。最終的には国の信用に関わる。
 再発を防ぐためには、省庁が集めた個別の調査票に第三者が目を通せる仕組みが必要だ。我々のような研究者は、こうしたデータに大きな関心を持っている。
 たとえば今回の書き換えでは、建設会社の数カ月分の受注実績が1カ月にまとめて記入し直されていた。そんな調査票を見れば、特定の月で受注が極端に多いという不自然さに、誰かが気づく可能性がある。そのことが、「見つかるかもしれないので不正はやめておこう」という役所への抑止力になる。
……日本の役所は「個人情報を守るため」と免罪符のように言い続けて公開を拒み、努力を怠ってきた。情報はとにかく全部自分たちで囲っておきたい、外からとやかく言われたくないという考えで、統計は公共のものだという意識が薄い。
 それが不正につながったのだと思う。

「個人情報」を免罪符にしてきた霞が関 統計不正を防ぐ具体策はこれ:朝日新聞デジタル


 最後に、政治学者で北海道大学教授の遠藤乾さん。一連の統計不正を、国債の大暴落を招いた2009年のギリシャと類比するのだが、これにはギクリとさせられる。以下、要約。

 ギリシャは2008年のリーマン・ショックで税収が減り、財政赤字が膨らんだ。欧州連合EU)の加盟国は、財政赤字国内総生産GDP)の3%以内に抑えることが義務づけられていて、ギリシャの2009年の赤字見通しは当初は3.7%だから、ぎりぎり何とかなりそうな状況に見えた。
 ところが、2009年10月に中道左派のパパンドレウ政権が誕生し、政権交代が起こると、前政権のずさんな統計が明らかになり、08年の財政赤字GDPの5.0%から7.7%に拡大し、09年にいたっては13.6%と当初見通しの3倍以上に膨らんでいることがわかった。
 その結果、EU国際通貨基金IMF)が主導して、増税や年金改革といった痛みが伴う緊縮政策が始まった。国民の反発は強く、極右政党「黄金の夜明け」が躍進するきっかけにもなった。共通通貨であるユーロからの脱退も取りざたされ、ユーロの信頼性が揺らぐなど、危機は欧州全体に波及した。不信感はイタリアなど他の財政赤字国にも広がり、欧州債務危機を引き起こした。
 ギリシャの統計が問題視されたのは、これが初めてではない。ギリシャは通貨統合が成立した1999年には欧州連合EU)への参加が認められず、2001年に加わわったが、その前後の財政赤字を過少申告していたことが2004年に明らかになっている。「1部リーグ」に入れないという焦りから、統計の書き換えに走ったのかもしれない。

 国交省が書き換えたのは建設工事の受注統計で、ギリシャ財政赤字だから、同じではないという見方もあるが、基幹統計をゆがめたのだから、根っこは同じだ。3年前には厚生労働省による毎月勤労統計の不正が発覚しており、日本の霞が関は構造的におかしくなっている。政府は今回の書き換えがGDPにどう影響するかはまだわからないなどとしているが、影響がないなら、なぜ受注統計を集めているのか。二重計上もあったようだし、受注額を大きく見せようという意図だったならば、等身大の姿をゆがめたギリシャと同じだ。
 日本政府は国家の信用にあぐらをかいているのではないか。ギリシャでは、過少な財政赤字の発覚から実際に危機が起きるまで、若干のタイムラグがあった。政権交代が2009年10月で、格付け機関ギリシャ国債を格下げして危機が始まったのは12月。11月には、中東ドバイの政府系持ち株会社の債務返済繰り延べ要請に端を発して、世界的に株価が暴落する「ドバイ・ショック」が起きた。これは何とか押さえ込んだが、この時から関係者の間で「そういえば、ギリシャも危ない」との見方が広がった。つまり、金融危機の影響は時差を伴って現れる場合がある。日本はそれなりに国家のかたちが整備されているとはいえ、油断していると、思いがけないときに影響が出るかもしれない。
 特に日本の財政赤字は世界的に見ても最悪の水準だ。公表数字がひどいのに、その基幹統計自体がグラグラするようでは、実はもっとひどいのではないか、との疑心暗鬼を招きかねない。巨額の赤字と統計書き換えの「合わせ技」に、いつか世界市場が牙をむくかもしれない。甘く見ない方がいい。市場が一方向に一気に動くのは、ギリシャ危機で経験済みだ。
 今回の書き換えが統計法違反にあたるなら、きちんと立件すべきだ。ギリシャの場合、政権交代が発覚のきっかけになったが、いまのところ日本では起きそうもない。それならば、捜査権限がある機関がきちんと調べて、会計検査院も厳しくチェックするしかない。外部から厳しく指弾される前に、何重かのブレーキを利かせて、国としての力量を示すべきだ。

国家の信用にあぐらをかく日本 統計のウソに市場はいつか牙をむく:朝日新聞デジタル


 希望をもって一年を締めくくりたいものだが、終わりに、トルストイ『文読む月日』の今日12月31日の記述より。希望はありやなしや。

 (一) 過去はすでになく、未来はまだ到来していない。現在はすでにない過去と、まだ姿を見せない未来との無限の接点である。そこにおいてこそ、その時間のない一点においてこそ、人間の真の生活が行われるのである。

 (二) 「時は流れる!」われわれは普通そんなふうに言う。でも、もともと時間というものはない。われわれが動くのである。     (『タルムード』による)

 (三) 時間はわれわれのうしろにあり、またわれわれの前にもあって、われわれとともにはない。
……
 (六) …昆虫の本能のなかに…、彼らが過去によってよりもより多く未来によって導かれているのではないかと、われわれに思わせるようなものがある。もしも動物が、未来を予感する能力と同じ程度に過去を記憶する能力を持っていたなら、ある種の昆虫はその点で、われわれよりすぐれているかもしれない。実際に、どうやら予感する能力は、常に過去を記憶する力と逆比例しているようである。
                            (リフテンベルグ

……
 (八) 時間というものはない。あるのはただ、無限に小さな現在だけである。そしてその現在のなかで生活は行われているのである。それゆえわれわれは、その現在にのみ精神力のすべてを傾注しなければならない。

(北御門二郎訳『文読む月日』下巻 493-496頁)

 みなさん、どうか穏やかな新年をお迎えください。





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