ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

ジョージ・オーウェルとの「遭遇」

 最近ジョージ・オーウェルに二度「遭遇」した。
 1回目は先週の水曜に本屋で。時間つぶしに小さな本屋に入ったところ、偶然『一杯のおいしい紅茶』というオーウェルのエッセイ集を見つけた。2020年刊の新版である。こんな小さな書店の本棚に並ぶなんて、こういう時代でも「需要」があるのかと思い、パラパラめくりながら、「なぜ私は書くか」などいくつか読んだ。昔読んでいるので、懐かしく思うはずが、内容はもうほとんど忘れていて、少し新鮮な感じがした。
 2回目は昨日、朝刊のビルマミャンマー)のことを取り上げた記事を見て。オーウェルは警察官として1922年から英領だったビルマに赴任し、5年ほど滞在していたことがあるのだが、そのオーウェルの足跡を追って、米国人ジャーナリスト、エマ・ラーキン氏が、今から17年前、アウンサンスーチー氏が自宅軟禁下にあった当時のビルマを旅した。その旅行記のなかで、ビルマの状況をオーウェルの小説「1984年」と重ね合わせ、国家が人々を監視し思想を統制する様は「オーウェル夢魔がまさに現実味を帯びた世界だった」などと書いたことが反響を呼んだ(らしい)。昨日の記事は、再び軍事独裁国家化しているビルマの現況をふまえて、これを検証するものだったが、紙面を開くと、まずオーウェルの顔が目に飛び込んできたので、あっ、と思ったのだった。
 ラーキン氏の件は、ことばが一人歩きしている感じは否めないが、「1984年」とビルマの現況を重ねること自体には、小生も違和感があるので、記事中の根本敬氏のコメント部分だけを下に引用させていただく。

ジョージ・オーウェル「1984年」 ミャンマーが舞台なのか? | 毎日新聞

1984年」はジョージ・オーウェルが20世紀半ばに書いた反ユートピア小説だ。全体主義国家が市民の日常を絶えずチェックし、監視。過去も改ざんして人々を支配する。
 約40年にわたりビルマミャンマー)の近現代史を研究する上智大の根本敬教授は、この小説と現実のミャンマーを同一視することには反対する。「ミャンマーという国への誤解や、ミャンマーの人々が持つパワーを見誤ることにつながる」ためだ。
 その理由として根本教授は「ミャンマー国軍のトップは(小説のように)特定のイデオロギーで国民を洗脳するという意図があまりない」ことを挙げる。「仮にその意図があったとしても、それを実現するための技術は未熟で、監視にはいくらでもほころびがある」と指摘する。
 さらに、根本教授はミャンマーの人々が過去のクーデターに抵抗してきた歴史を示し「国民が国軍の奴隷であるかのように見ることには誤りがある」と語る。
 2月のクーデター以降、ミャンマーでは特に若い世代がデモに参加したり、職場を放棄して抗議の意を示す「不服従運動」に加わったりしてきた。豊かさを実感できる中で育った今の若者にとり、クーデターは人生設計を壊す許しがたい行為にうつるという。「国軍は、敵に回してはいけない世代を敵にした」
 根本教授は「ミャンマー軍事独裁国家であることは否定できない。国際社会は国内で民主主義を目指す勢力を口だけではなく、きちんと行動で支えるべきだ」と訴える。「国の主役であるミャンマーの人々は、能力も判断力もあり、自力で生き抜くパワーを持っている。同情されるだけの存在ではなく、私たちも彼らから多くのことを学べることを忘れてはならない」と話す。

 一週間のうちに二度もお会いした機縁で、オーウェルの評論集(平凡社刊 4巻)を引っ張り出してみた。本屋で読んだ「なぜ私は書くか」は、その第1巻に入っていて、確かに読んだ形跡があった。改めて(3回目?)読み直すと、オーウェルの実直さがよくわかる。
 それと、もうひとつ。今日12月21日、東京都の武蔵野市議会で、在住外国人にも投票権を認める住民投票条例案が採決されるが、これをめぐる反対派のヘイトスピーチ化した罵詈雑言を見ていると、オーウェルが1945年に書いた「ナショナリズム覚え書き」が非常に示唆に富んでいると思えた。このタイミングで読めたのは、天の声か、神の導きか(いや、単なる偶然!)。以下に一部を引く。

……ナショナリストとは、何事ももっぱら、あるいは主として、威信競争と関係づけて考える人間である。…とにかくその考えはつねに勝利、敗北、栄光、屈辱といったものを中心にして動く。ナショナリストは歴史、とくに現代史を、大きな勢力の果てしない興亡として見、すべての事件を味方が上り坂にあり憎むべき敵は下り坂にあることの証拠だと感じる。しかし、最後に、ナショナリズムを単なる成功礼讃と混同しないことが大切である。ナショナリストは単に強い方に味方するという原則に基づいて動くものでない。逆に、いったん自分の立場を決めた以上、それがいちばん強いのだと自分に言い聞かせ、いかに形勢が非なる場合でもその信念を守り通す。ナショナリズム自己欺瞞を伴った権力欲といえる。すべてのナショナリストはまぎれもない歪曲もあえて辞さないが、それでいて――何か自分より大きな存在に殉じているという意識があるので――自分が正しいと信じて疑わないのである。
<中略>
……あるいはまた、偏向のない見方などというようなものはありえない、すべての信条や主張には、同じ虚偽、愚昧、野蛮が潜んでいる、と論じられるかもしれない。そしてこのことがしばしば、政治にはいっさい関わらないことの理由として持ち出される。しかし私はこの議論を認めない。現代の世界ではインテリと呼べるほどの人間ならだれしも、政治に関心を持たないという意味で政治に関わらないでいることはできない。人は政治――広い意味で――に関わるべきだし、好悪、賛否を明らかにしなければならない。つまり、同じ間違った手段に訴えているにしても、ある主義は他の主義よりも客観的にすぐれていることを認めなければならない、と私は考える。上に述べたようなナショナリスティックな愛憎については、われわれたいていの人間が、好むと好まざるとにかかわらず、みんな持っているのである。それが除去できるものかどうかは私にもわからないが、少なくともそれと戦うことは可能であり、それが真の意味での道徳的努力だと信じる。それはまず第一に、自分が実際どういう人間であるか、自分のほんとうの気持ちはどうであるかを発見することであり、次に、そこから来る避けがたい偏向を考慮に入れることである。もし、ソヴィエトを憎み恐れているならば、もしアメリカの富と力を嫉妬しているならば、もしユダヤ人を軽蔑しているならば、もしイギリスの支配階級に対して劣等感を持っているならば、ただ考えているだけではそうした感情を取り除くことはできない。が、少なくとも自分にそういう感情のあることを認め、それが思考過程をゆがめるのを防ぐことはできるはずである。避けることのできない、そして政治的行動のためには必要でさえあるかもしれない感情的衝動は、現実の容認と両立しなければならない。しかし、くり返して言うが、そのためには道徳的努力が必要である。…
       (川端康雄編『水晶の精神 オーウェル評論集2』、38・70-72頁)

武蔵野市の住民投票条例案のこと - ペンは剣よりも強く




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