ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

「気候正義」と「静かな暴力」

 気候変動対策(脱炭素社会)に関する江守正多氏(国立環境研究所)の論考を読んだ。2月26日にオンラインで開催された気候変動対策を検討する審議会で「将来世代」として意見を述べた高校生や大学生の若者世代の発言に共感し、触発されたことが綴られている。少し長くなるが、以下に引用させていただく。

日本の気候変動対策に欠けているもの ―我々は若者の声に学べるか(江守正多) - 個人 - Yahoo!ニュース

……日本でも多くの主体が脱炭素化に本気になってきたようにみえる。しかし、筆者にはそこに肝心なものが欠けているように思えてならない。

若者が指摘した「静かな暴力」
先日、それを鋭く指摘されたと感じた場面があった。
気候変動対策を検討する審議会の一つである、中央環境審議会と産業構造審議会の合同会合の第3回が2月26日にオンラインで開催され、筆者も委員として出席した。この回の主な議題は「将来世代からのヒアリング」であった(この議題は画期的である)。
気候変動問題等に関する活動を行う高校生や大学生のyouth(若者)世代3団体、Climate Youth Japan、Fridays for Future * Japan(FFFJ)、Japan Youth Platform for Sustainabilityから意見を聞いた。
どの団体の発表も意義深いと感じるものだったが、ここでは特にFFFJの発表を取り上げたい。

* Friday for Future 「未来のための金曜日」:2017年、環境活動家グレタ・トゥーンベリさんが、より強
  い気候変動対策を求め、毎週金曜日学校を休んでスウェーデン議会の前に一人で座って抗議したこと
  に共感した人々が始めた世界的な草の根運動

彼らが明確に主張したのは「気候正義」(Climate Justice)であった。彼らの一人は「気候変動に加担していない人々が最も影響を受ける不条理」への憤りを感じたことから声を上げ始めたという。
すなわち、気候変動で激化する災害により生活の基盤を失い難民化する発展途上国の人々は、我々に比べてほとんどCO2を排出していない。CO2を排出しながら暮らす先進国の我々の生活は、彼らの犠牲の上に成り立っているというのである。FFFJはこれを「静かな暴力」と呼んだ。

同様な格差の構造は、一国内での所得水準や性別の違いによっても生じる。例えば貧しい人や女性ほど災害時に被害を受けやすいからだ。
そして、FFFJの彼ら自身が直面するのが世代の違いによる格差である。気候変動でより深刻な被害を受けるのは将来世代であるにもかかわらず、対策の意思決定は上の世代によって行われている。
我々の多くは、これらの格差構造から恩恵を受け、自分が他者に対して振るう「静かな暴力」から目を背け続けている。
FFFJの若者たちは、このことをえぐるように指摘した。

気候正義の専門家の見解
この考え方は始めて聞く人にも理解しやすいものだと思うが、これを「気候正義」と呼ぶことについては少し注釈が必要かもしれない。
日本語で「正義」というと「正義の味方」を思い浮かべ、反対語は「悪」であり、絶対的で排他的な正しさが主張されていると感じる人が多いのではないか。
しかし、英語のjusticeは、just、つまり丁度よいことが語源で、裁判で量刑が丁度よく決められるように、釣り合いの取れた正しさを指す。日本語では「公正」と訳す方が理解しやすいかもしれない。ちなみにjusticeを「正義」と訳す場合、反対語は「悪」ではなく「不正義」(injustice)である。

正義は本来、倫理学や哲学の概念であり、筆者にはこれ以上の解説はできないので、法哲学の専門家で編著書に『気候正義 地球温暖化に立ち向かう規範理論』のある、京都大学の宇佐美誠教授に、今回のFFFJの発表についてコメントを頂いた。

環境省経産省の審議会の合同部会におけるFFFJの発表を閲覧し、大いに説得力を感じた。
特に注目されるのは、気候変動のインパクトが2つの意味で不平等に表れることを強調している点である。
若年層は壮年層・老年層よりも、また将来世代は現在世代よりも深刻なインパクトを受けるだろうことについては、最近には社会的認知が広がりつつあるように見受けられる。
他方、同一世代内でも、家父長制的社会での女性や、社会を問わず低所得層・先住民族など、社会的経済的に不利な人々が、気候変動のインパクトを集中的に受けつつあり、今後はいっそう受けるだろうという傾向は、日本ではいまなお知られていない。
これら2つの意味での不平等を正面から受け止め、事態の改善をめざす際の理念が、〈気候正義〉に他ならない。
これを訴えるFFFJの主張に、大人世代は真摯に耳を傾けるべきだろう。
京都大学 大学院地球環境学堂 宇佐美 誠)

……気候正義は欧米ではかなりメジャーな概念であるが、日本では若者や環境NGOの主張の中でしか耳にすることがない。
日本で脱炭素に取り組む動機は、企業においても政府の産業政策においても金融やサプライチェーンなどの外圧の影響が大きいようにみえるし、自主的な動機を挙げたとしても自身への異常気象被害への危機感が主なものだろう(それももちろん大事だが)。世界の脱炭素化が必要な理由を問われたときに気候正義を挙げられる人は、日本の政治や企業のリーダーにほとんどいないのではないか。
気候正義をどれだけ重視するかは各人の価値観や信条によるとしても、少なくともそのような議論についての理解がなければ、欧米のリーダーからは脱炭素化の理念の底の浅さを見透かされてしまうおそれがあると思う。

<以下略>


 現在の日本の政治リーダーの「底が浅い」のはこの問題に限らない。他人の作文を読むことしかできないような「器」にどんな「底」があるのかも疑わしい。彼らを選んでいるのが「われわれ」である以上、「われわれ」の「底」こそが問題だが……。

 さらに、この「静かな暴力」は、いくら「暴力」だと言われても、見ようとしないと「暴力」であることがわからない。この2カ月余りのビルマミャンマー)国軍の「蛮行」は誰の眼にも明白な「暴力」だが、国際社会がそれを傍観していれば、ビルマの人々には十分それも「暴力」だ。沖縄の基地建設にも同じ構図があるし、東京オリンピックにもそれは共通している。“ともに生きる“ という発想の基点がないところには、この「暴力」は普遍的に存在するかのようだ。

 世代をまたぎ、地域を越えて、想像できるかどうか。そしてまた、共に行動できるかどうか。個人としてできる範囲は限られるが(…と思うところがもう「老害」的だが)、この件で無自覚に齢を重ねてきたこと自体、少し省みたい。



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