ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

「素顔のグレタ」

 昨日、期日前投票衆院選挙の投票とともに国民審査(最高裁判所裁判官罷免投票)をしてきたので、そのことを書くつもりでいたが、今朝の毎日新聞グレタ・トゥーンベリさんの記事を読み、気持ちが変わった(「罷免投票」の件は、以下をご覧いただきたい。ちなみに「罷免投票」としたのは不信任裁判官に×をつける投票だから)。
https://www.jdla.jp/shinsa/images/kokuminshinsa21_6.pdf

 スウェーデンの環境活動家として知られる若者グレタ・トゥーンベリさんを描いたドキュメンタリー映画「グレタ ひとりぼっちの挑戦」が22日から全国公開されるという。記事には、この映画の監督ネイサン・グロスマン氏のインタヴューが掲載されている。以下は10月19日付記事からの引用(聞き手:八田浩輔記者)。

誰も知らなかったグレタさんの素顔と葛藤 記録映画の監督が語る | 毎日新聞
(※21日付記事は以下)
重圧・葛藤、素顔のグレタさん スウェーデン監督、見つめた3年間 ドキュメンタリー映画、あす全国公開 | 毎日新聞

――作品は、グレタさんがスウェーデン議会の前で一人始めた2018年夏の学校ストライキの場面から始まります。まだ無名だった彼女の撮影を始めたきっかけは。
 グロスマン監督ドキュメンタリー制作には珍しくないことですが、私の友人がグレタさんの家族と知り合いだったのです。そのつながりで、議会の外で子供が何か抗議をするらしいと聞きました。当時グレタさんのことを調べようにも、ほとんど情報がありませんでした。ただ一つ、環境をテーマにした作文コンテストで彼女の作品が受賞し、保守系の地元紙に掲載されたのですが、その内容が非常に興味深かったのです。議会と私の職場が近いこともあり、下調べのつもりで取材に行きました。その年のスウェーデンの夏は非常に暑く、気候変動への関心が広がっていました。
――その後、なぜ彼女を撮り続けようと思ったのですか。
 気候変動と自らの行動についての彼女の語りにひかれました。学校を休んで路上に座り込む彼女と通りすがりの人たちとの会話がとても面白かったのです。この女性が世界をどう捉えているかを深く知りたいと思いました。当初は国内に限定した活動でしたが、本格的に撮影しようと決意したのは18年の冬ごろでした。学校ストライキが豪州やベルギーに広がり始めたのです。スウェーデンでは50~60人程度の小さなデモにすぎなかったのに、いつの間にか国外で数千人、数万人もの子供たちが「私たちはグレタと共にある」というボードを持って抗議行動を始めたのです。本当に驚きました。彼女のメッセージが世界に響いていることを理解したのです。
――学校ストライキが世界的なムーブメントになる予感はありましたか。
 全くありませんでした。何よりグレタさん自身が想像していなかったはずです。実は最初の頃、私は(データ容量を抑えるために)低画質モードでカメラを回していました。見る人の関心をそこまで引きつける話題とは考えていなかったのです。でも彼女には、気候変動という非常に大きな問題を人々に訴える力強さがありました。彼女が自分の意思で行動を始めたタイミングもちょうど良かったのだと思います。
――もともと気候変動には関心があったのですか。撮影の過程で気候変動への考え方や取り組みについてグレタさんから影響を受けたことはありますか。
 食肉やエネルギーの消費について番組を作ったことがあったので、気候変動への関心や科学についてのある程度の知識はありました。撮影を通じて変わったのは移動です。グレタさんは(温室効果ガスの排出量が多いことを理由に)飛行機に乗らないので、一緒に各地を鉄道で移動しました。私にとっては初めてのことでしたが、実際には気軽で、(時間などを)犠牲にしたと感じたこともありません。今も続けています。
――自宅や親子げんかなどプライベートの場面も多く盛り込まれています。どのようにグレタさんや家族から信頼を得たのでしょう。
 ドキュメンタリー制作で最も重要な点です。時間に制約のある紙媒体のジャーナリズムに比べ、私たちは取材相手と長く付き合うことで、対象をより深く理解できると考えます。はじめに私はグレタさんと家族に「物語を作りたいが、その内容がどうなるか保証できない」とはっきり伝えました。長い時間をかけて同行取材を積み重ねるうちに、私がグレタさん自身と彼女の長い旅を本当に理解しようとしていることが伝わったのだと思います。
――グレタさんの両親は学校ストライキに協力的でした。日本ではそれほど数は多くありませんが、子供から学校ストライキに参加したいと言われた場合、親にアドバイスすることはありますか。
 彼女には活動を支援してくれる家族がいて、学校制度の整った国に暮らしている点でとても恵まれています。グレタさんにとって、気候変動のために学校をサボることがそれほど難しくなかったのです。彼女自身も抗議活動を続けながら学業を両立できると語っていました。それでも選挙権がない若い人たちが学校を休むという不服従運動に参加するのは、本当に、本当にこの問題が深刻であると訴えたいからだと思います。
――学校ストライキが追い風になり、欧州各地で環境政党が躍進しています。作品では欧州政治にもたらした「グレタ効果」にほとんど触れていません。なぜですか?
 この作品は、グレタさん個人の物語と旅、そして彼女の人生を描いています。私が興味を持ったのは、スポットライトを浴びることによる感情の変化や、そのことが示す意味でした。ですから作品では気候変動とは何かも説明していませんし、政治の動きも細かく触れていません。私は「グレタ・トゥーンベリになるとはどういうことか」に興味があり、そこに焦点を当てて編集しました。将来的に、おそらく20年先くらいには、彼女がもたらした政治的な変化を振り返ることができると思います。
――フランスのマクロン大統領をはじめ、多くの政治指導者がグレタさんと対話をしました。監督は多くの場面に立ち会ったと思いますが、最も真剣に彼女の声に耳を傾けたと感じる政治家は誰ですか。
 多くの政治家たちとグレタさんとの面会の場面を撮りましたが、ほとんどは作品に残していません。それほど重要ではなかったからです。保守・リベラルの政治的立場を問わず、指導者たちは彼女に礼儀正しく接し、一緒に写真を撮りたがりました。しかし、私が見た範囲では、心から気候変動問題を解決する言葉を口にした政治家はいませんでした。彼らの多くは、実際に彼女にアドバイスを求めていたと思います。グレタさんは「私は何が問題なのか警鐘を鳴らすことはできますが、間違いなく解決策は大人の世界で議論すべきこと」と伝えていました。私たちの社会にとって、気候変動に対処するための本当に良い解決策を見つけることがどれほど困難かを示していると思います。最高指導者たちも暗闇の中を模索しているのです。
――新型コロナウイルスの流行後、路上での学校ストライキは難しくなりました。気候変動に対する社会的な関心も一時的に下がりました。パンデミック(世界的大流行)は、グレタさんと学校ストライキの勢いをそいだと考えますか。
 その結論を出すには早すぎると思います。ドイツでは今年9月の総選挙直前に数十万人がストライキに参加したと報じられています。(流行の沈静化に伴い)急速に参加者が増えています。新型コロナのパンデミックで分かったのは、市民からの強い圧力があれば、政治システムは目の前にある課題を危機と捉えて対処するということです。気候変動の危機に関しては、まだ政治が危機と捉えているようには見えません。これからだと思います。
――作品を貫く一つのテーマが「気候正義」です。日本ではなじみの薄い言葉なので、意味を説明してもらえませんか。
 正直に言うと、グレタさんの話を聞くまで私も気候正義について理解していませんでした。簡単に説明すると、気候変動の問題は、西側や強い経済力を持つ先進諸国がより多くの責任を負っている、ということです。気候変動の原因にはほとんど寄与していない地域で暮らす人々が、より大きな影響を被ることになるのです。こうした不均衡を正していく必要があります。
――グレタさんが完成した作品を初めて見た時の感想は。
 彼女に作品を見せる前に、「カットすることはできない。でも私が何かを見逃していたり、あなたのことを理解していないと思ったりするなら、話し合おう」と伝えました。作品を見た後に彼女は「私は自分が思うよりもオタクっぽい人間だったんだ」と言いました。構成には口を出していません。彼女によれば、他のメディアでは、自分自身を単純化されて描かれることに不満を持っていたようです。悲鳴を上げて怒る幼い子供、あるいは、偶像視され、強く賢い人物として描かれることが多かったと。私が見たままを描いた姿を、彼女が受け入れてくれたことをうれしく思いました。
――この作品を見た人に届けたいことは。
 この作品はグレタさんと彼女の活動の動機を描いたものです。彼女から世界がどのように見えているのか、彼女が気候変動をどのように捉えているのか、そして(グレタさんが当事者である)アスペルガー症候群についても深く理解することができると思います。彼女は一人の人間であると理解してもらうことは本当に大事だと思っています。インフルエンサーもセレブも活動家も政治家も、私たちが普段目にするのは切り取られた一つの姿でしかないのです。
<以下略>

 グロスマン監督はインタヴューのなかで、「私が見たままを描いた」と言っているが、「描かれた」当のグレタさん本人は映画を見て「自分が思うよりもオタクっぽい人間だった」と感想を述べているところがおもしろい。
 しかし、実際ドキュメンタリーとかノンフィクションとかいうのはそういうものだと思う。監督も、グレタさんのありのままの「素顔」を撮っているつもりでも、カメラの奥から「被写体」を追っている視線というのはあるわけで、これに編集が加われば、ますます監督の人間性や感性が滲み出ることにもなるだろう。撮影で「被写体」に密着すれば密着するほど、また、その時間が長ければ長いほど、好悪の感情に委ねる「誘惑」に駆られるのではなかろうか。
 それは映画を見る側も同じだ。だから「素顔のグレタ」には常にカッコをつけなければいけないと思う。「素顔のグレタ」を追った(として撮られた)映画を見て、我々は「グレタの素顔」(の断面、断片)を見た(知った)……。ちょうどグロスマン監督自身が「私たちが普段目にするのは切り取られた一つの姿でしかない」と述べているように。そして、グレタ・トゥーンベリを「ヒロイン」や「悪役」に仕立てるのは我々だという自覚がなければ、我々は常に消費者や傍観者で終わってしまう。「興行的」にはそれでもよいかも知れないが、さて、それで何がどうなるのだろうか。
 機会をつくれれば、この映画、何とか見てみたいのではあるが。



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