ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

北角さんの解放

 ビルマミャンマー)で拘束されていたフリージャーナリストの北角裕樹さんが昨日(5月14日)、逮捕から26日ぶりに解放され、昨夜無事に帰国した。ビルマの情勢は変わらず厳しい様子だが、これには安堵した。この間の関係者の尽力をねぎらいたいと思う。

 それにしても、国軍側のいう「虚偽のニュース」を広めた罪など、「濡れ衣」や「見せしめ」に過ぎないのだが、北角さんはどんな記事を書く人だったのだろうか。2月末、北角さんが最初に拘束されたときのことを書いたレポート(北角さんが逮捕・収監されたため、しばらく発表が留保されていたもの)を時事通信に見つけた。当時はクーデターが起きてから1カ月足らず。国軍側が有無を言わさぬ市民弾圧に踏み切る前後だったと思われる。
 以下に部分引用してみたい。

当局に一時拘束され、運よく解放 ミャンマー・クーデター現地リポート:時事ドットコム

 2月26日午前10時半ごろ、筆者はヤンゴンの繁華街・ミニゴン交差点近くで、デモの取材をしていた。数千人が高架橋の下で音楽やシュプレヒコールで抗議しているだけで、至って平和なデモだった。……写真や動画を撮影して11時を回った頃、遠くのデモの様子がおかしいことに気が付いた。よくよく見てみると、デモ隊の向こうに、数十人の武装警察官が横一列になって、警棒で盾をガンガンとたたいて行進してくる。慌ててカメラを動画に切り替えて撮影しながら、デモ隊と一緒に後ずさりし、警察の隊列から離れようとした。
 警察の隊列はゆっくりと歩を進め、デモ隊との間を詰めていた。一方、デモ隊は数千人もいるため、それほど素早くは移動できない。ふと気付くと、大通りの反対側からも数十人の警察官が迫っており、挟み撃ちにされるような形になった。
 何人かの警察官がこちらを見ている。狙われていると感じた。筆者はカメラを下げ、そそくさと道の端によって現場から離れようとした。その時、4~5人の警察官が、こちらに向かって猛ダッシュしてきた。横道を探して逃げようとしたが、入れる道はなかった。逃げられないと悟り、両手を上げ、抵抗の意思がないことを示した。しかし、警察官は強引に筆者を取り押さえ、殴打を加えた後にカメラと眼鏡、ヘルメットを奪い取った。そしてそのまま護送車に連行された……。
 幸運なことに、拘束された現場には多くの報道関係者とデモ隊の人たちがいて、彼らの手にはおびただしい数のスマートフォンやビデオカメラがあった。筆者が連行され、警棒で殴られ、蹴られる様子を多数の人が目撃していた。あっという間に「日本人記者が拘束」とのニュースが、ミャンマーのSNSを駆け巡った。また、友人のカメラマンは、筆者がどこに連れていかれるのか突き止めようと、ずっと行方を追ってくれていた。

<略>
 当初、警察は私を外国人と認識していなかったかもしれない。私はミャンマー語を話さないようにしていたため、警察官の片言の英語と、スマートフォンの翻訳アプリでやりとりをしていた。警察官は、簡単に名前や住所、職業、パスポート番号などを確認していた。なぜか分からないが、違う警察官から同じ質問を何度もされた。
 少したってから、拘束されている者の中で私だけが呼ばれた。護送車の外で立ったまま、階級の高そうな年配の警察官から尋問を受けた後、別の警察官が翻訳アプリで日本語の音声を聞かせてきた。「きょうで釈放します」と言っているように聞こえた。かなり早い段階で、ミャンマー側は筆者の釈放を決めていたことになる。
 結局、護送車には2時間ほど留め置かれていたと思う。護送車は、ほかのパトカーや兵員輸送車とともに、ミニゴンの交差点付近に止まっていた。拘束したデモ隊の参加者らを閉じ込めておくためだ。近くには警察の部隊が銃を構えて展開していた。護送車に拘束されているうちの1人が、「(警察の)指揮官が『デモ隊が来たら撃て』と指示を出している」と筆者に耳打ちした。
 その後、筆者らは警察署に連行された。連れていかれたのは取調室のような所で、鉄格子のある拘置施設ではなかった。そこで、持ち物をすべて机の上に出してチェックされ、写真を何十枚も撮られた。
 筆者だけでなく、拘束された多数の人が聴取されており、時間がかかっていた。そのうち、押収されたカメラと眼鏡が返ってきた。ただ、カメラのメモリーカードが抜き取られていた。
 警察官は拘束の理由を「記者とは気付かなかった。防弾チョッキを着ているので、テロリストのようで怪しかった」と説明した。しかし、筆者のヘルメットには大きく「PRESS(報道)」と書かれており、大きなカメラを構えていたのだ。明らかに記者と知った上での拘束であると考えられる。
……筆者は大使館と弁護士に連絡したいと申し出た。警察は携帯電話の使用を許可した。連絡すると大使館はすでに動いていてくれた模様で、筆者が警察に拘束されている状況を把握していた。
 その後のやりとりを経て、……午後4時すぎに、私は解放されることになった。
 警察署の門には、数十人が集まっていた。報道陣もおり、門を出たところであいさつした。「私は無事です。助けようとしてくれた友人たちに感謝します。しかし、まだ拘束されている人がいるので、すべての人が釈放されることを望んでいます」と英語で話した。拘束された知人の行方を追って警察署の前に来ている人も多く、筆者に「こんな風貌(ふうぼう)の人を見なかったか」と次々に聞いてきた。警察は拘束した者の情報を明らかにしないため、拘束されたという情報があっても、どこに収容されているのか分からないのだという。
 私は迎えに来てくれた知人に連れられ、無事帰宅することができた。大使館や知人に対し連絡を入れ、マスコミのインタビューに追われてその日は終わった。
 筆者が5~6時間で刑事処分なく解放されたのは、まさに幸運だった。外国人だったことが、半日で釈放された大きな理由だろう。
 この頃はちょうど、それまで自制的に振る舞っていた当局が、デモへの実力行使にかじを切り、メディア弾圧に乗り出す境目だった。翌日には、私の友人のミャンマー人の女性記者をはじめ6人の報道関係者が逮捕され、友人は起訴されたまま、いまだに釈放されていない。その後もメディアに対する弾圧は厳しさを増して処分も重くなり、筆者の2週間後に逮捕されたポーランド人カメラマンは13日間拘束されて国外退去となった。

 さて、解放後に徐々に取材活動を再開した筆者の取材環境は激変した。デモ取材に行くたびに声を掛けられるのだ。「私たちのためにありがとう」と礼を言われることが多いのだが、中には「国軍のせいでひどい目に遭ってしまって、あなたに謝りたい」という声もしばしば聞いた。……
 このほかにも、取材中に弁当や飲み物の差し入れをする住民がいたり、喫茶店で原稿を書いていると知らない客からドリンクや手書きのメッセージが届いたりした。自宅の隣人たちも筆者の安全を気に掛け、周囲に不審な者がいないかなどをこまめに連絡してくれる。警察や正体の分からない不審者から街を守るため徹夜で見張りを行う自警団にも誘われるようになり、夜回り活動に参加したこともある。国軍部隊がデモ鎮圧に来るのを筆者が遠くからカメラを構えていた際には、木製の盾を掲げて筆者の姿を隠してくれたデモ参加者すらいた。その間、自分の体が無防備になってしまうにもかかわらずだ。
 筆者に対するこの反応は、市民が今の惨状を世界に伝えてほしいと切望しているからに他ならない。私の知るところ現在ヤンゴンで取材する海外の記者は10人に満たないとみられ、ほとんどの海外メディアは地元記者の協力を得て国外から報道している。
……ミャンマーでは筆者の拘束後、デモ隊の鎮圧が激しさを増し、攻撃目標はデモ参加者のみならず、一般市民にまで拡大している。筆者も実際に散弾銃の実弾を乱射する部隊を目撃しているほか、夜間に巡回する警察もしくは国軍部隊による無差別的な投石やスリングショット(パチンコ)によって、筆者の事務所の窓ガラスが割られている。市民団体の調べでは4月15日までに、726人が当局の弾圧で死亡、3151人が拘束されたままだ。
 また、これまでにおよそ60人もの記者が拘束されたとされる。主要な民間メディア5社の免許も停止された。夜間のインターネット使用に加え、携帯電話を使ったモバイルデータ通信が全面的に停止となり、市民らが撮影した国軍側の残虐行為を伝える写真や動画がSNSに投稿される数も減っている。そんな中でも、地元の記者らは半ば地下活動のような形で潜伏して、インターネット上に記事や写真をアップしている。また、政府非公認の地下ラジオを放送する動きもある。それは少しでも惨状を伝えてほしいという市民の思いを受けたものだ。筆者もその思いに応え、現地の情報を発信する活動を続けたい。


 北角さんの解放(交渉?)には日本財団笹川陽平会長)がかかわっているという記事を目にした。また、日本ミャンマー協会の会長が5月13日、ビルマミャンマー)に向けて出発していたこともわかった。日本の外務省が14日、ビルマに向けて400万ドル(約4億3,200万円)の緊急無償資金協力を発表したのを、北角さんの解放とセットで考えなければならないとすると、ちょっと悩ましい。政府には人命第一で取り組んでほしいと思う反面、軍事政権を間接的に支援することにもなるからだ(それでも、結果よければ……と思いたいが)。

 首相は常々「国民の安全安心を守る」と述べているが、日ごろからその言葉通りに政府が動いていれば、さしたる疑問も挟まない。それが、なぜか今回だけということになると、支持率回復、点数稼ぎ、などと穿った見方が頭をよぎる。そうでないことを証明するためにも、是非、北朝鮮拉致被害者も同様に救出してほしいし、コロナで路上に投げ出されている人々にも「公助」の手を差し伸べてほしい。スタンドプレーや「やってる感(ふり)」を振りまかなくても、やることをやってくれれば、国民は相応の評価をするはずだ。

 5月の今、事態はこの記事を書いた時点よりもさらに緊迫していると想像する。小生も、毎朝仏壇に一日無事に過ごせるようにと手を合わせているが、切迫感が違い過ぎる。まずは、無事で何よりだった。


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