ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

五・一五事件から89年

 1932(昭和7)年5月15日日曜の午後5時頃、青年将校や士官候補生、政治団体の塾生らが決起し、首相官邸立憲政友会本部、三菱銀行、警視庁などを襲撃した。犬養毅首相は、この日、来日中だった喜劇俳優チャールズ・チャップリンと会食する予定だったが、それがキャンセルとなり、終日首相官邸にいたところを襲われた。「話せばわかる」「問答無用、撃て!」のやりとりがあったと伝えられるが、5時半頃のことだったという。事件の背景は単純ではないが、ロンドン海軍軍縮条約への反発や世界恐慌による不況と農村の疲弊、政治・官憲の腐敗や財閥・資本家の強欲、特権階級の利権に対する批判などがあるとされ、この事件を節目として、政友会と民政党による戦前の二大政党による「政党政治」は崩壊したと言われている。

 5月15日付朝日新聞歴史学者小山俊樹氏帝京大学)のインタビューがあった。「歴史は繰り返す」を現在に単純に当てはめることはできないが、いくつかの状況に似たものを感じた。後半部の氏の発言の概要を部分的に引用する(聞き手:稲垣直人記者)。

五・一五事件は現代への警告 蔓延する絶望と政治の責任:朝日新聞デジタル

 天皇は当時、政党政治に不信感を抱いていました。この時の2大政党である政友会と民政党は、あまりに党利党略で動き、激しく攻撃し合っていました。当時の政党で特にひどかったのは党利党略による官僚の人事です。その中心的人物が、犬養の後に与党・政友会総裁となった鈴木喜三郎でした。鈴木の狙いは総選挙に勝つことでした。そのためには、当時は政府任命だった各県の知事、地方官、そして警察機構をフル活用することが不可欠で、その人事権は内務省が握っていました。内相を務めた鈴木は、ライバル政党・民政党系の官僚をどんどん飛ばし、自分の政党である政友会系の官僚優遇人事を進めました。天皇は、そんな鈴木の行いも覚えていたはずです。

 1年後、事件を起こした者たちの裁判が始まりました。1年間の報道管制が敷かれた後、海軍と陸軍の関係者は軍法会議で、民間人は東京地裁で裁かれました。軍法会議というと非公開と思われがちですが、一部を除いて公開されました。報道が解禁されるに従い、大衆からは減刑嘆願運動が起き、被告への同情論が盛り上がっていきます。当時は昭和恐慌で国民が苦しみ、「格差社会」への言いようのない鬱屈感、政治不信が広がっていた時でした。そこへ「既成政党・財閥は国民の敵」「特権階級を打破せよ」と主張する決起将校が現れ、英雄視されました。当時の新聞も、傍聴席で涙ながらに温情判決を訴える老婆……といった国民の声を盛んに報じました。ここに1933年9月16日付の朝日新聞がありますが、19歳の女性が「五・一五の方々を死なせたくない」と遺書を残して鉄道自殺したことを報じています。

 メディアは基本的に大正デモクラシー期までは政党寄りでした。それが昭和に入ると、軍部は世論工作のための新聞の重要性に気付き始め、新聞社内にシンパも作るようになります。そんな中、1931年に満州事変が起き、大々的に戦争報道をすると新聞は売れる、という時代に入ります。新聞社としても、例えば戦場写真を撮りたい、戦場に報道用の飛行機を飛ばしたいとなり、軍とのコネクションがどうしても必要となる。こうして新聞は戦争報道のため、軍部は世論形成のため、両者が接近する中で、五・一五事件は起きたのです。
 取材源に食い込まないとネタを取れないというのは、今のメディアの意識と変わりませんが、それがメディアの「中央との関係」とすれば、「地方との関係」も無視できません。各地にあった団体「在郷軍人会」は、軍隊生活を終えて帰郷した者でつくる団体で、新聞を買ってくれる存在だった一方、不興を買えば、不買運動を起こされたりしました。軍部や五・一五事件を例外的に批判したジャーナリスト桐生悠々は、在郷軍人会の不買運動をきっかけに「信濃毎日新聞」を追われました。

 被告の元軍人らは、戦中・戦後に出所しています。当時の法相が示していた見解や海軍軍法会議での求刑は、一部被告は「死刑」でしたが、判決はそうはならなかった。当時としてもかなり異例の判決でした。背景の一つに、海軍内で軍縮に反対する急進派、賛成する穏健派の間の権力闘争があります。急進派にとって、軍縮に反対して決起したという首謀者を擁護し、減刑にすることは、自らの主張の正当化も意味しました。海軍はまた、大先輩の発言が無視できない世界です。東郷平八郎元帥らはまだ健在で、東郷もまた被告の減刑支持派でした。新聞や世論の同情論も全く影響しなかったとは言えないと思います。海軍内の軍縮反対派が、「国民の多くも被告に同情している」と、主張を正当化する根拠にできるからです。一方の軍縮賛成派は、判決が下る前後にパージされていきました。
 4年後の二・二六事件で首謀者は死刑ですが、これとは、世論との関係で言えば、タイミングの違いがあります。五・一五の首謀者がなぜ1932年という年を選んだのかと言えば、国民経済がどん底にあり、自分たちが「世直しだ」と立ち上がれば、国民も付いてくる、との読みがあったからです。一方、二・二六事件が起きた1936年は、蔵相・高橋是清による積極財政が奏功し、日本はいち早く世界恐慌から脱したと言われるほど、経済は立ち直っていました。庶民の救済よりも陸軍内部の事情が強く影響し、裁判も非公開で行われたため、世論に訴える機会もありませんでした。

 政治が格差を是正できない、経済政策も国民にちゃんと説明しない……。そんな中で国民が将来に希望を持てず、絶望感が蔓延していると、何らかの大きな転機があれば、そちらになびいてしまう。それが五・一五事件でした。「享楽の時代」とも言われた当時、渋沢栄一が明治期に唱えた「富める者の責任」は忘れられ、都会は華やかなネオンがともっているのに、地方の農民や労働者は貧困にあえいでいました。このようなテロは現代日本では考えにくいとしても、経済・社会的な格差は社会を不穏にする。現代への警告にもなり得る事件だったと思います。



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