ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

白井聡さん「総裁選に寄せて」

 誰が勝っても政局の狼煙になると言われた横浜市長選が行われたのが8月22日。地盤である(はずの)横浜で、自らの推す候補が敗れ「惨敗」を喫したかたちのスガ首相が、八方塞がりで自民党総裁選への出馬をついに断念したのが9月3日。それから1ヶ月近くにわたって繰り広げられてきた(煽られてきた)自民党の総裁選も、明日9月29日でようやく決着を迎えることになる。

 この間、新型コロナの新規感染者の減少傾向をいいことに、国会を開かず、次のコロナ第6波に備えた体制・法整備をすることなく、今月をほぼ「失われた1ヶ月」にしてしまった罪は重い。
 昨日(27日)もコロナ感染による死者は28人、この1年半余のあいだに累計で1万7,514人もの方が亡くなっている。毎日のことで慣らされてしまっているが、未曾有の大惨事である東日本大震災の場合、この10年で確認された死者数は約15,900人、行方不明者2,500人余、これらを合計すると1万8,400人を超える。他国の成功したコロナ対策の事例を知るにつけ、政治の(怠慢の)せいでこれほどの死者が出てしまった事実と向き合わないわけにはいかない。

「デルタ株発見後3カ月で国内感染ゼロ」日本とは次元が違うコロナ対策に台湾国民が従うわけ(プレジデントオンライン) - Yahoo!ニュース

 9月27日付毎日新聞のWeb「政治プレミア」に、政治学者の白井聡さんの記事があった。この総裁選に「アベスガ体制」9年の終焉をみることができるだろうか。

裸の王様は引きずり降ろされるのか? 自民党総裁選に寄せて | | 白井聡 | 毎日新聞「政治プレミア」

 いま行われている自民党総裁選は、日本の政党政治史上有数の身勝手で、したがって醜悪を極めた政争である。周知のように、衆議院総選挙が迫っている。総選挙における敗北、政権喪失の危機におびえての看板の入れ替え――自民党にとっての今回の総裁選の意義はそれに尽きる。

本来ならばコロナ対策の立て直しの時期
 総裁選と新政権の発足に明け暮れる9、10月は、本来ならば、冬に必ず来る次の新型コロナ流行をにらんで、今度こそは医療崩壊を招かぬよう対策の抜本的な立て直しを図るための時間になるはずだった。しかし、この貴重な時間は失われ、ウイルスの変異の仕方次第ではこれまでよりも深刻な感染拡大が引き起こされるであろう。
 あまつさえ、新型コロナ対策を審議するはずの臨時国会開催を憲法を踏みにじって拒絶したうえで、この政争は戦われている。ゆえに、この総裁選はどれほど厳しく見ても厳し過ぎるということはない。
 これほどの犠牲を払いながらそれでもあえていま権力闘争を繰り広げるというのならば、その犠牲に見合った「成果」が総裁選には求められる。現状を見る限り、その「成果」は、2012年の第2次安倍政権発足により成立しその後9年近くにわたって固定化されてきた「体制」の動揺が浮き彫りになってきたことを指摘できる。

「体制」の持続か終焉か
 その体制は「安倍1強体制」とメディアから呼ばれてきたが、このネーミングには一種の戸惑いが込められていた。すなわち、安倍政権が大した成果を出しておらず、不正と腐敗にまみれているにもかかわらず、野党に自公政権を脅かす力がなく、自民党内にも安倍を打倒しうる勢力がないために、盤石の長期政権が続いたことに対する戸惑いである。
 しかし、そんたくも強権も通用しない新型コロナウイルスに遭遇して、「体制」は己の無知と無能をさらけ出した。その結果が、いまから約1年前に起きた安倍晋三氏の政権投げ出しである。そして、安倍退陣から菅義偉政権成立に至るまでの過程は、頭目を失って一瞬揺らいだ「体制」が速やかに自己維持を図り、それに成功した過程であった。「体制」にとって最大の脅威であった石破茂氏を総裁選で惨敗させたところに、その意図と成功が端的に表れていた。
 そしてそれから1年。菅首相もまた、新型コロナによってノックアウトされた。今日の状況が昨年の今ごろと異なるのは、「安倍後継は菅」という流れが瞬く間に形成されていった、言い換えれば、「体制」護持の流れが速やかに形成されたのとは異なり、総裁選において<「体制」の持続か、「体制」の終焉(しゅうえん)か>という対立構図がせり上がってきた点にある。

 とはいえ、この構図は主に属人的な視角から語られている。影響力の維持をもくろむ安倍氏高市早苗氏を後押ししつつ、岸田文雄氏をカードとして残し、河野太郎氏のもとに「反安倍」的勢力が集合している、という具合である。
 安倍氏の言動には自己保身の動機が透けて見える。森友学園事件をはじめとする数々のスキャンダルの責を追及されたくない、追及されれば、政治生命が終わるだけでなく、監獄入りの可能性すらあるのだから、当人としては必死だ。
 この期待に応えようという高市氏がアピールしている政策は、敵基地攻撃能力の保有、具体的には「電磁パルスによる敵基地無力化」である。電磁パルス(EMP)弾とは、強力な電磁パルスを発生させて敵国の電子機器をまひさせるという戦術であるが、現状ではこれを実行できる通常兵器はなく、核兵器が必要となる。
 高高度核爆発、つまり敵国の上空、高高度に核兵器を積んだミサイル等を発射してそこで爆発を起こし、電磁パルスを発生させるのである。とすれば、高市氏は核武装が必要と考えているのだろうか。この主張と、非核三原則核拡散防止条約(NPT)体制との整合性については何も語られていない。したがって、この主張は妄言の類いと受け取るほかないのだが、こうした人物に頼らざるを得なくなっているところに「裸の王様」と化しつつある安倍氏の苦境が見て取れる。

 他方、河野氏の「反安倍」色には不鮮明さがある。森友学園事件の再調査を明言した石破氏から支持を受けながら自らは再調査を否定するのは、つじつまが合わない。
 とはいえ、河野氏の「核燃料サイクル計画見直し」の主張は、「体制」の命運を見定めるうえで、きわめて重要だ。同計画は、日本の原発政策の根幹に位置し、これを止めることは10電力会社の経営基盤ひいては日本の電力供給体制そのものに対する激震をもたらす。この激震は本来、10年前に福島第1原発が大事故を起こしたときにすでに不可避なものとなったはずだった。にもかかわらず、経済産業省に支えられた「体制」は「世界一安全な日本の原発を世界に輸出する」とかいう夢物語のなかでまどろみ続け、激震を遠ざけ続けた。そしてその間、世界で進行した自然エネルギーへの転換から日本は取り残された。
 こうした文脈から見れば、河野氏核燃料サイクル見直しの提案は、3.11で露呈した日本社会の暗部と閉塞(へいそく)に蓋(ふた)をして虚勢と欺まんに開き直ることによって維持されてきた「体制」に対する本質的な異議申し立てとなりうるし、そうならなければ三文の値打ちもない。

目前の危機にどう対処するか
 そして、新総裁・新首相は、「体制」の無能と限界をさらけ出させ1万7000人もの犠牲をもたらした新型コロナにどう立ち向かおうとしているのか、見ておかなければならない。演説会や討論会を見る限り、率直に言って期待できない。なぜなら、これまでの対処が原則の次元でどうおかしいのかを指摘する候補者は誰もいないからだ。
 感染症対処の原則、すなわち「検査と隔離」がないがしろにされていることこそ、1年半以上にもわたって日本のコロナ対策が混乱から脱け出せない根本原因にほかならない。だから、本邦における新型コロナ流行は、PCR検査抑制という他国に類を見ない愚策に始まり、「自宅療養=放置=隔離の放棄」に帰結した。原理原則の次元の問題を見抜けず、曖昧な対応に終始している官僚集団に対して指導性を発揮できなかったことが、安倍・菅首相が退陣に追い込まれた原因だった。
 してみれば、どの候補が首相になるのであれ、中長期的に何をするのかを見るまでもなく、目前の危機に対して何をするのかによって、「体制」の後継者であるのか、それとも否定者であるのかが明らかになるであろう。

 「体制の後継者」か「否定者」かなどというレッテル貼りは、月が替わって解散するだけの国会を開くかどうかで、すぐにわかりそうな感じがする。そもそも「否定者」が選ばれるようには思えないのだが…。



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