ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

嘘の繰り返し

 ハンナ・アーレントの『全体主義の起原3』(みすず書房)から引用を二つ。


 <嘘の持つ可能性についての恐るべき魅惑的で頽廃的な観念……>でっちあげとか嘘とかは充分に大がかりで大胆でさえあれば疑う余地のない事実に転化しうるのではあるまいか? 人間というものは、過去を意のままに変える自由を持つのではなかろうか? 真実と嘘の違いとは単に権力と狡智の問題であって、テロルとプロパガンダによっていつでも変え得るものではなかろうか? 全体主義運動の魅力は単にスターリンヒットラーの嘘を吐く名人芸にあったのではなく、彼らが大衆を組織し操作して自分たちの嘘を現実へと変え得たという事実にあった。学者から見れば単なる捏造でしかなかったものが、ここでは「未来に向かって突き進む」運動に支えられ「歴史的」行動を鼓舞する思想の源泉として利用されたが故に、それは歴史自体によって認証を与えられているかに見えたのである。
(大久保和郎・大島かおり訳 52頁)


 大衆は目に見える世界の現実を信ぜず、自分たちのコントロールの可能な経験を頼りとせず、自分の五感を信用していない。それ故に彼らには或る種の想像力が発達していて、いかにも宇宙的な意味と首尾一貫性を持つように見えるものならなんにでも動かされる。事実というものは大衆を説得する力を失ってしまったから、偽りの事実ですら彼らには何の印象も与えない。大衆を動かし得るのは、彼らを包み込んでくれると約束する、勝手にこしらえ上げた統一的体系の首尾一貫性だけである。あらゆる大衆のプロパガンダにおいて繰り返しということがあれほど効果的な要素となっているのは、大衆の呑み込みの悪さとか記憶力の弱さとかの故ではなく、単に論理的な完結性しか持たぬ体系に繰り返しが時間的な不変性、首尾一貫性を与えてくれるからである。大衆が認めようとしないのは、あらゆる現実の一要素をなす偶然性である。イデオロギーにとってはこの偶然性の否認は好都合である——イデオロギーは予め法則を設定し、その法則の例証たり得る事実のみを事実として扱い、一切の個別的事象を包括する全能の法則を仮定することですべての偶然性の符合というものを排除してしまうのだから。このように現実から想像へ逃避し、事実から目をそむけて歴史の必然性を信じようとする態度は、あらゆる大衆プロパガンダにとっての前提条件なのである。
(同 80頁)

 その「例証」というほどの話ではないが、

1)さくらを見る会・前夜祭のホテルの明細書や領収書の提出の件。1月5日、アベ事務所はいずれもホテル側による再発行は難しいなどと回答。

安倍事務所、明細書は「公表の予定ない」 夕食会問題で [桜を見る会]:朝日新聞デジタル


2)自民党の2F幹事長は1月5日、役員会後の記者会見で、五輪・パラリンピックについて、「自民党として開催促進の決議をしても良いくらいに思っている」、「開催しないということのお考えを聞いてみたいぐらいだ」、「スポーツ振興は国民の健康にもつながる。」などと述べた。

二階氏、五輪「開催しないお考え聞いてみたいぐらいだ」 [新型コロナウイルス]:朝日新聞デジタル


3)北海道新聞から「感染拡大が止まらず、宣言検討に至った政府のコロナ対策の自己評価を」と問われたスガ首相は「感染拡大の背景は気温の低下の影響に加え、飲食の場面が主な要因とされる。これまでも全国で飲食店の営業時間短縮を進めており、北海道、大阪などしっかり行った地域では効果が出ている。」と回答。

「気温の低下が影響」 菅首相、政府のコロナ対策評価問われて <年頭会見後質問>:東京新聞 TOKYO Web


 しかし、大衆(国民)の多くは、今、こうした “政治屋” を信用していないので、嘘と大衆プロパガンダが見え見えになってきている。というか、良くも悪くも素通りしている感じ。しかし、決して機能していないわけではない。
 緊急事態が宣言されたら国会議員の会食を4人までとする? これを議院運営委員会で協議する? ——この非常時にまだこんなことを言っている人たちがいるという “現実” を見ず、自分の “経験” や “五感” をも信じない人がいるうちは、嘘とプロパガンダも「機能不全」にはならないだろう。

「国会議員の会食は4人以内に」自民 森山国対委員長 | 新型コロナウイルス | NHKニュース




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