ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

トニー・ブレアの回顧録より

 X(Twitter)を眺めていたら「過激ダンスショー」というTrendが立っていて、何のことかと思って見てみると、自民党青年局の醜態を咎める記事録でした。これは産経新聞の記事に端を発しているようですが、確か3月8日の今日は「国際女性デー」のはずです。「出来事」自体は去年の11月の話のようですが、このような日にこうした記事をぶつけてくるのが産経だと知って、何とも言えぬ気分になりました。
<独自>自民党青年局近畿ブロック会議後の会合で過激ダンスショー 口移しでチップ渡す姿も 費用は党が支出 - 産経ニュース

 記事に会を企画運営した県議の「釈明」がありますが、このダンスショーのどこが「多様性」なのか意味不明な上に、そもそもLBGTの権利はおろか夫婦別姓も容認できない党の人間に「多様性」などと言われると、笑止千万、かたはらいたし、です。個々の議員の意見までは知りませんが、党全体としては自民党にとって「多様性」という語は、他人や他団体の考えや価値観を尊重するのではなく、自分たちの言い分を尊重しろ、批判するなという意味の方便でしかありません。裏金問題といい、このような下劣なことができてしまうのは、恥じる気持ちがないというよりも、精神の深い部分がシニシズムに蔽われているからでしょう。石原伸晃が言ってましたよね。(世の中)いくらきれい事を言ってても、「最後は金めでしょ」と。要は、自分の利得や出世に興味はあっても、社会とその未来に希望をもっていないから、こういうことができるのだと思います。自己顕示欲はあっても、真の自信(プライド)はないのではないか――でも、そんな議員は、こちらにとっては願い下げです。

 2007年までイギリスの首相だったトニー・ブレア回顧録を読んでたら、こんなことが書いてあります。

……私は人生のいろいろな局面で多くのことを学んだ。政策や意思決定の類いの話をしているのではない。……言いたいのは、人間としてどう人生に取り組むか、ということである。私の息子のリオ(執筆当時11歳)ほどの年齢の生徒たちに話をするチャンスと栄誉を与えられたときに、彼らにぜひ理解してほしいと思っていることがある。自分のような人間――首相を10年務めた――は、出来合いでもなければ運命づけられてそうなったわけでもないということだ。信じられないかもしれないが、私もかつては彼らと同じような子供だったと説明する。成功とともに、実現しなかった夢、挫折した希望、失望に終わった期待などが皆と同じように入り交じっていたということだ。私は成功した人を見てこう考えたものだった。自分にはあの人のようになれる確信はない、と。自信を失うこと、失敗すること、二番目になること、人を失望させ、自分を失望させることがどんなことか知っている。成功は、生まれつきの才能、勤勉、判断、そしてそう、途中で多少の幸運に恵まれることの混合である。すべての人がトップにまでのぼれるわけではない。のぼりつめた人ですら、そこでつねに満足を見出すわけではない。
 とはいえ、一つ学んだことがある。消極的な心の持ち主には何一つやってこないということだ。……毎日を自分の祝福を数えることによって始めてほしい。悲惨なこと、憂鬱なこと、悲劇的なことを考えたり経験したりする時間はたくさんあるだろう。どんな人生にも、そうした感情は存分にある。しかし、人生は贈り物だということを理解しなければならない。人生にこのような心構えで取り組めば、どれほど暗い日々に見えようとも、一条の光をつねに見つけることができる。そしてその日に向かって動くことだ。
……われわれに必要なのは、自信を回復すること、困難な問題に直面しても、それを克服する能力と勤勉さが備わっているという自己への信頼を取り戻すこと、それに尽きるのである。
                    (『ブレア回顧録』上、42-43頁)

 何度でも書きますが、自民党のみなさん、子どもたちが見てることを忘れないように。
 

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盛山文科大臣をめぐる記事

 昨日の毎日新聞の「日曜くらぶ」に掲載されている2つのコラムに偶然同じ政治家のことが取り上げられていました。編集者的には、重複するのは好ましくないという思いがあるかもしれませんが、事が事だけに敢えて掲載したというところでしょうか。
 まず、俳優・松尾貴史さんの記事「ちょっと違和感」。3回に2回くらいは政治がらみの松尾さんの「違和感」が綴られますし、毎週楽しみにしながら読んでいるので、小生としては特に「違和感」はありませんが、もう一人の、心療内科医の海原純子さんの記事「新・心のサプリ」の方は、政治家の名前が出て来ることはあまりないので、これはある意味「深刻」な事態と受け止めています。問題は、その「深刻」さを当事者達がまともに受け止める気がないということです。

松尾貴史のちょっと違和感:文科相の重責 「過去はともかく」では済むまい | 毎日新聞
新・心のサプリ:情けない発言=海原純子 | 毎日新聞

 松尾さんの記事から一部引用すると、
……宗教法人の解散命令請求を申し立てた文科省のトップが、問題になっている宗教団体と密接につながっているという異常さを、与党の議員は屁(へ)とも思っていないのだろうか。
 盛山文科相は、旧統一教会の関連団体との事実上の「政策協定」に当たる「推薦確認書」に署名したかどうかについて国会で追及されると「記憶にない」を10回以上も連発するなどして逃げている。しかし、証拠(自身の署名入り)の「推薦確認書」の写真を見せられると「うすうす思い出してきた」などと答弁をしたり、あるいは「内容をよく読まずサインしたかも」などととぼけたり。その翌日には「記憶にない」との答弁に戻ったりと、頭の中が混濁しているようだ。こんなに記憶力がなく、書類の内容をよく見ずにサインをしてしまうような人物が、大臣でいていいわけがない。
 岸田首相による「過去の関係はともかく、現時点では当該団体と一切関係がない」などというかばい方は、あまりにも稚拙かつ乱暴だろう。暴力団との密接なつながりがあっても「もう付き合わないから」と言って公的な重責を担う人がいたら、問題なしとはならないだろう。ましてや、現在大問題の焦点になっている宗教団体が相手なのである。政治家は「過去の関係はともかく」で済まされる仕事ではない。
 そして今度は、旧統一教会と盛山文科相がまだつながっていることが早々と明らかになってしまった。教団系の機関誌「世界思想」が毎月、神戸市にある盛山氏の地元事務所に「無料で」届けられていることが分かった。旧統一教会の関連団体から衆院選で推薦状を受け取っていたとされる問題を巡り「旧統一教会との関係は既に断ち切っている」と否定していたのは真っ赤な大うそではないか。機関誌の受け取りは「記憶にない」では言い逃れられない。
 しかしそれでも、与党と維新は盛山文科相不信任決議案を否決した。……

 他方、海原さんは、こう書いています。
 1986年に施行された男女雇用機会均等法の成立など日本女性の地位向上に力を尽くし「均等法の母」と呼ばれた赤松良子元文相が2月はじめに亡くなった。
 その日の新聞には現在の文部科学相盛山正仁氏が2021年の衆院選で旧統一教会側と事実上の「政策協定」に当たる推薦確認書に署名したとされる問題が掲載されていた。報道によると、「サインしたかもしれない」と述べたという。ただこの発言は、その後「記憶が全くない」と修正されている。
 なんだか情けない感じがしたのは私だけではないと思う。たくさんの人と会っていると記憶にないことはあるだろう。記憶力がどんなに良くてもすべての人を覚えていることなどありえない。ただ仕事上の大事な契約相手となると話は別だ。
 政策協定は政治家にとり最も大事な自分の基盤だと思う。自分の考え方、自分の生き方の基盤になるものだ。そんな大事なことを覚えていないというのはどういうことだろう。
 人間の記憶には限界がある。本当に覚えていないなら考えられる理由はいくつかあるがひとつは、政策協定より大事なことに意識が集中して政策など二の次になっていた場合だ。政策より大事なことというのは何だったか、というと選挙の支援をしてもらうことだろうか。理由はどうあれ大事な政策に関する内容を忘れる人が大臣なのか、と思うと情けない気持ちになってきた。
 同じ日の紙面で赤松元文相の訃報を知り、当時、政治に対して私たちは、希望と期待をもっていたなあと思い出していただけに、このままでいいのだろうかと思った。……

 盛山文科相不信任決議案が否決されたので、「負け惜しみ」というか「腹いせ」ついで言うと、政治的な「損得?」を考えれば、このまま盛山大臣に大臣を続けてもらっても、野党側にとって「損」にはならないかもしれません。万一、盛山大臣や文科省がウラで統一教会に有利に働くようなことをしでかせば、「それ、見たことか!」と批判できますし、統一教会側からは今後も盛山大臣、岸田首相、その他関係議員の過去の醜聞を暴露する情報リークが続くでしょう。ダメージは今後も引きずられていきます。
 盛山大臣を「続投」させるのは、野球でストライクが入らないノーコンのピッチャーを替えず、四球・押し出しが連続していくようなものです。勝負に関しては相手チームは全然困りません。ただし、それでは選手はやる気が失せますし、観客もそんな試合は見たくもないでしょう。監督がピッチャーを替えない限り、まともな野球の試合にはなりえません。それでも観客の関心を散らしながら(ゲームからそらして)、ピッチャーを替えない監督というのが今の岸田首相なのでしょう。

 松尾さんは、「子どもたちの教育について最も責任ある立場に、こんな人物を就かせ続ける岸田首相も無能と言わざるを得ない」とキツい一言で結んでいます。「無能」というのが、言いすぎでもないと感じたのは、先日の衆院予算委で、答弁に立った鈴木財務大臣が、政治資金収支報告書に記載されず、政治活動に使わなかった収入について、納税するかどうかは、「疑義を持たれた政治家が……判断されるべき」と述べたというニュースを見たからです。まったく常識を疑う発言です。これも任命したのは岸田首相です。
鈴木財務相 政治資金問題 “納税行うかは議員が判断すべき” | NHK | 政治資金
鈴木財務相「納税行うかは議員が判断すべき」発言に怒り爆発の人続出。「国民も納税は自己判断でいいってこと?」 | ハフポスト NEWS

 むかし、1989年の東欧革命後、ポーランドで行われた総選挙の集計の(たぶん)途中経過の模様を映す衛星中継を見ていた時、いわゆる「与党」候補の当選がゼロで驚いた記憶があります。この国で、そんなことは起こらないのかも知れませんが、そういうことにでもならないと、自民党はこの腐敗・堕落を自ら正せないのだろうかと思ったりします。

 海原さんの結びの言葉も引用させてください。
 改革と前進することができたのは政治家の決断と変えようとした一般人の声があったからだと思う。
 いま報道で見聞きしている答弁は政治に対する希望を失わせる内容ばかり。こんな時代、自分なりにできることは、「それはダメです」と声をあげることかと思う。



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ガッサーン・カナファーニー「彼岸へ」

 昨日、国連の安全保障理事会でガザ停戦決議案が否決されました。アメリカが拒否権を行使したからです。言われているとおりにイスラエル軍ガザ地区南部への侵攻作戦を進めれば、ガザの人々には行き場がありません。すでに死傷者は2万5千人を超えているという報道もあります。ブラジルのルラ大統領は、「ヒトラーユダヤ人を殺害すると決めたとき」と同じくらい類例がないと、イスラエルを強く非難しました。
 アメリカ政府は、拒否権行使の一方で、ナワリヌイ氏の死亡に関してはロシアに制裁措置をとるそうです。広報官は「ロシア政府が世界にどう説明しようとも、プーチン大統領とその政府がナワリヌイ氏の死に責任があることは明白」だと説明しました。おそらく失笑が漏れていることでしょう。逆に、「アメリカ政府が世界にどう説明しようとバイデン大統領とその政府がガザの多くの人々の死に責任があることは明白」です。誰がどう見ても顚倒矛盾しているのです。誰も助けない、誰からも助けてもらえない……国際社会は見て見ぬ振りをする――そんな絶望とシニシズムを蔓延させるようなことをまだ続けるのかという思いがします。
アメリカが拒否権行使し否決 ガザ停戦決議案 国連安保理 | NHK | 国連安全保障理事会
ブラジル大統領、ガザ情勢をホロコーストになぞらえる イスラエルは強く批判 - BBCニュース
米、大規模対ロ制裁を23日に発表 ナワリヌイ氏死亡を追及 | ロイター

 36歳で亡くなった(1972年に爆殺された)パレスチナ人作家ガッサン・カナファーニーの短編集を読みました。小生のような軽薄な人間には重すぎる文章ですが、彼のことが先週の「長周新聞」の記事でも取り上げられていることを知りました。
パレスチナ難民が抱えてきた苦渋の体験と感情世界を描く パレスチナ人作家カナファーニーの短編 | 長周新聞

 小生が読んだのは河出文庫の短編集ですが、タイトルにもある「ハイファに戻って」をはじめ、たとえフィクションであっても、おそらく「事実」としてあった話だろうと感じました。その中で、「彼岸へ」という短編は、タイトル自体も特異ですが、そのスタイルもまた異質で、正体不明の人物がほぼ一方的に話し続ける形式で、考えようによっては「パレスチナ人の語り部」のようにも思えます。その中に、パレスチナの人々の心情を察するに、それがよく現れている(ように思う)箇所があります。もう半世紀以上も前の文章ですが、古い感じはまったくしません。少し長くなりますが引用します。

……旦那さん、あんた達は俺を溶かしてしまおうとしましたね! そのためにまあよくも、まるで疲れることも倦きることも知らぬげに、不断の尽力をしてくれましたね。……そう、一人の人間から一つの状態へとね。そう、ですから、この俺というのは、一つの状態なんですよ。それ以上のものでは決してねえんだ。たとえそれ以下であることはあっても。俺は一つの状態なんだ。俺たちは一つの状態なんだ。そうだからこそ俺たちは驚くほど平等なんですよ。旦那、これは驚くべきことですよ、まったく途方もねえことですよ。……あんた達は、この百万人もの人間から一人一人が持っている各自の特性ってやつを喪わせちまったんですよ。あんた達には、一人一人を見分ける必要なんかねえんですよ。だってあんた方が目の前にしているのは、状態なんですから。もし、あんた方がそれを盗っ人の横行する状態だと呼びたけりゃあ、あんたの前にいるのは俺達盗っ人の集団てことになるんですよ。もし裏切りの横行する状態だと言えば、俺達は裏切り者の集団てことにだって、なるんですよ。
<中略>
……ねえ、旦那さん、俺はあんたの目をもっと他の多くのことに向けたいって思うんですよ。あんたは騒ぎをおこす不平分子は皆パレスチナ人だってでっちあげることで、あんたの同胞の忠誠心を前より確かなものにすることができるんですからね。もし、あんた方のもくろんだ企ての一つがうまくいかなかったら、その原因はパレスチナ人だと言ってみなさいよ。え! どうやればいいのかって! 何もそんなことは、時間をかけてまで考えることなんかじゃあないでしょうが。たとえばパレスチナ人がその現場を通ったとかなんとか言えばいいいいんですよ。でなきゃあ、やつらは平素から面倒なことの片棒をかつぎたがっていたって言ったっていいでしょう。いや何だっていいんです、あんたの考えたことに歯向かうような奴はいないでしょうからね。どうして歯向かったりしますか? あれから十五年もたったいま性懲りも無く身の破滅だってわかっているのに、やみくもに自分を危ない目にあわすような無茶を誰がしますか?
 ねえ、旦那さん、あんたも俺たちがしばしばただ御慈悲をかけてもらうのを待っているだけの、あわれなものにされているのを見ているでしょう? あんたたちは気を重くすることも、恐怖も、良心の呵責ってやつを感じることさえなく、俺たちの一人を吊し首にしてその死体をみせしめにして、千人の人間に教訓をきざみこもうとするんですからね。けれどね旦那さん、あんた方思う以上に俺たち自身、こういう仕打ちをされても仕方ないのだと、自分たちのことを思っているんですよ。俺たちは盗みをはたらいたし、裏切ってきたし、俺たちの国の大地を敵に売りわたしさえしたんですからね。俺たちは欲深く、ちりあくたまで残さず貪るほど強欲だったんですよ。これが、俺たちに定められた役割だったんですよ。俺たちは否でも応でも、その通りにしなければならなかったんですよ。けれどね旦那さん、そこには、ひとつ簡単なことなんだけれど、そのことで俺は夜もよく眠ることができず、どうしても言ってしまわなければならないことがあるんですよ。つまりね、人間ってのは、たいてい自分がある場所で足場を得ると、“それじゃあ、どうする?” って将来のことを考えはじめるもんでしょう。何がいまわしいかって、自分に “それじゃあ” っていう先のことが、からっきし与えられてねえってことがわかったときくらい、無惨なことはねえですよ。気が狂うんじゃないかと思うくらい、うちのめされちまいますよ。そのときその人間の口からは、ほとんど聞きとれぬ くらいの声の独り言がもれてくるんですよ。
 “これで生きてるっていえるか? これなら、死んだ方がましだ”
 それから何日かたつと、その声は大声に変わってわめきはじめるんですよ。
 “これでも生きてるっていえるのか? 死んだ方がましだ”
 このわめき声は、旦那さん、感染していくんですよ、そして皆が一斉にわめくんです。“これでも生きてるっていえるのか? 死んだ方がましだ” ってね。人間ってのは普通、死ぬことを、それほど好きじゃあないもんですよ。それで、俺たちは他のことを考えざるを得なくなるんですよ。……

(訳文・奴田原睦明、『ハイファに戻って/太陽の男たち』、168・171-172頁)



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