ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

民主主義は「神の摂理」…とはいえ

 加藤哲彦さんが運営する「トイビト(問い人)」に、「民主主義は生き残れるか」と題した政治哲学者・宇野重規さんのインタヴューがあります。これはいい企画で、大変勉強になります。以前、前編を読んでから後編を楽しみにしていたのですが、5月9日付ですでに更新されていました。

 「民主主義」は今でこそプラスの価値を帯びた言葉として使われますが、そうでない時代もあったそうです。この「(愚劣な)民主主義者どもが!」という罵りが、過去には普通にありえたのです。それがいつからプラスに転じたのか。今の日本の政党名でも「自由民主」「立憲民主」「国民民主」……と「民主(主義)」は外すことのできない政治理念になっています(実態はともかく)。

 宇野さんによれば、そのきっかけとなったのは、おそらくフランスのアレクシ・ド・トクヴィルと彼が残した『アメリカのデモクラシー』(1835年刊)ではないかということです。この本は岩波文庫から四分冊で訳本が出ています。松本礼二さんの訳が大変よくて、小生も十数年前に読みました。
 以下、宇野さんの話の該当部分の引用をお許しください。

民主主義は生き残れるか【後編】 | 宇野 重規 | トイビト


――古代ギリシアで生まれて以来、「民主主義」は大半の期間で衆愚政治のようなニュアンスの悪口として使われてきたということでしたが、ポジティブな意味合いになったのはいつ頃からですか。
 基本的には20世紀になってからだと思いますが、どんなに遡っても19世紀の前半でしょうね。きっかけの一つになったのはトクヴィル(1805-1859)の著した『アメリカのデモクラシー』(1835年発行)という本です。
 先ほどお話した通り、アメリカでは建国以来、民主制より共和制の方がはるかにいいものだとされてきたのですが、トクヴィルは民主制を称賛しています。民主主義は、問題はあるにせよ、全体としては良いものであると。そして、ある意味でそれ以上に重要なのは、歴史は民主主義に向かっており、身分制の世の中に戻ることは決してない。民主主義は神の摂理である、とまで言っているんです。

――すごい確信ですね。
 なんでそう思ったかという話なんですけど、実はトクヴィルはフランスの貴族の生まれです。ですから、お父さんもきょうだいもばりばりの右翼、ばりばりの王党派で、革命後のフランスをいかに元の身分制の世に戻すかと考えているような人たちでした。
 そんな中で育ったトクヴィルはいったん法律家になるのですが、貴族だからというのでいじめられて裁判所からドロップアウトし、現地調査のためにアメリカに向かいます。親父たちは革命なんてとんでもない、もう一度封建制に、ブルボン朝の王政に戻さなければいけないと言っているが、それが本当に正しいのだろうか。アメリカには新しい政治制度があるというが、それがどんなものなのか確かめてみようと

――自らの出自をそのまま受け入れることに疑問を感じたんですね。
 アメリカでトクヴィルは大歓迎を受けます。フランスから貴族が来るなんていうと、当時のアメリカ人は喜ぶわけですよ。しかしトクヴィルは、当時の大統領であるアンドリュー・ジャクソン(1767-1845)を見て失望します。ジャクソンは貧しい農民からたたき上げた元軍人で、民衆から絶大な支持を受けて大統領に就任しました。東部のエリートが政治を牛耳るのはけしからんと主張したアンチ・エスタブリッシュメントで、トランプ前大統領の原型とも言われています。
 ジャクソンのような人物を大統領に押し上げたのは、たしかにデモクラシーの力だ。それは認めよう。しかしジャクソン本人は、とてもじゃないけど立派な政治家とは思えない。アメリカのデモクラシーはやはりよくわからないと、ここではトクヴィルは納得しませんでした。
 しかし、当時ニューイングランドといわれたボストン周辺を調査したところ、意外なことに気づきます。当時のアメリカにはタウンシップという区画制度があり、それぞれが一種の自治区のようになっていたのですが、そこで暮らしている一般市民がとてもしっかりしているんです。ワシントンにいる大統領や議員より、名もないタウンシップの住民の方が、よっぽど社会のことを考えているぞと。
 当時のアメリカはまだ連邦政府も州政府も弱く、中央の行政が地域にまで行き渡っていませんでした。病院や学校をつくるにも、中央政府を待っていたら埒が明かない。そこで、一般の市民がアソシエーションという現在のNPOのようなものを結成し、いま町に必要なものは何か、そのためのお金をどうやって集めるかといったことを話し合って実行していたんです。
 これを見たトクヴィルは、これこそがデモクラシーであり、王政や貴族制よりもはるかに優れていると確信しました。限られたエリートだけが政治を行い、民衆はただそれに従っているより、一人ひとりが地域の問題に関わり、考え、行動する方が全体として多くのエネルギーが生まれ、いい社会になると考えたわけです。

――まさしく「参加と責任のシステム」ですね。
 ただ、『アメリカのデモクラシー』には、いいことばかりではなく、民衆のエネルギーが間違った方向に向かうととんでもないことになるといった危惧や、悪口もかなり書いてあるのですが、トータルで見ると民主主義はいいものだと。これはもう断言しています。
 加えてトクヴィルは、繰り返しになりますが、身分制から民主主義への転換は神の摂理だと言っています。身分制の世の中では、特権的な扱いを受けている人がいても誰も疑問に思わない。あの人は生まれが違うから、で納得する。しかし「人間は平等である」ということに一度目覚めたら、出自によって差別されることを人は二度と受け入れない。だから、民主主義から身分制の社会に後戻りすることは絶対にないと。私はこれは、正鵠を得ていると思います。

 小生も住んでいる集落の自治会役員を引き受けていて、月に一度会合に出たり、共同活動をしたりしているので、このアメリカのタウンシップの話は実感としてよくわかります。お祭りをどうするか、用水路の管理やゴミ問題をどうするか……時に激論になるのは、そこで生活している人間として、責任の一端を担っているという自負があるからです。そうでなければ、行政サイドから何か言われても、どうぞ勝手にやってください、俺たちは関与しないから、ということになってしまいます。

 小生のところの「タウンシップ」も、実際には、むかしからの人たちだけでなく新しく移り住んできた人たちもいて、何となく遠慮もあるためか、田舎暮らしのテレビドラマのようにはいかないのですが、それでも、ここが日本でも民主主義の「原点」であることは確かです。
 身分制から民主主義への転換は(神の)「摂理」で、後戻りすることはないというのには、小生も大いに同意します。もっとも、身分制上の「貴族」はいなくなったものの、特権身分然とした人たち(上級市民?)はいて、後戻りの策動はなお止まらないとも思っていますが…。



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