社会学者の見田宗介さんが4月1日に亡くなったことを知りました。
<評伝>希望のリアリズム、表現 社会学者・見田宗介さん死去:朝日新聞デジタル
むかし見田さんの『宮沢賢治 存在の祭りの中へ』(岩波現代文庫版 2001年)を読んだら、無性に「賢治」に会いたくなって、まだ元気だった父親を車に乗せて花巻まで遠出をしたことがあります。父親はこの「賢治に会いに行く」というフレーズが気に入ったらしく、帰ってからも度々母親や兄弟に「賢治さんに会いに行った」と口にしていました。二日目に花巻農業高校の敷地に残る羅須地人協会の建物を見に行ったのですが、朝から小雨のそぼ降る日で、何となく賢治が過ごした頃の花巻の夏が想像されました。父親もたぶん同じだったのではないかと思います。
雨は詩情を与えるものでしょうが、賢治にはそれ以上のものがあったかも知れません。見田さんはこう書いています。
賢治は学生時代から「一人でふらりと」岩手山へ登ることも多く、そこでしばしば雨に降られたことは想像に難くなく、「事実、同級生高橋秀松は賢治と岩手山麓のメノー山で雷雨にあい、骨の髄までぬれた思い出を記している」。
じっさいにこの北国の冷たい<雨>は、身体のあまり丈夫でなかった賢治の肺を確実に浸潤し、やがてその現実の死へとみちびくことになる力でもあった。<雨ニモマケヌ>身体をもつということがどのようにこの歩行する詩人にとってその生涯の願望でありつづけたかということは、晩年のよく知られすぎた手帳のメモからもあきらかである。
『小岩井農場』の歩行においても、賢治のじぶんにいいきかせるような否定断言にもかかわらず、…パート七ではもうすきとおる雨が降っていて、パート九では詩人はすでに全面的にこの雨に浸潤された風景を歩む。そしてこの雨に、詩人が何よりも恐れていたこの雨に浸潤されつくした空間の中ではじめて、詩人はこの歩行の旅で真に求めていたものを手に入れることができる。…
おまへの武器やあらゆるものは
おまへにくらくおそろしく
まことはたのしくあかるいのだ
この逆説のもつ意味に、わたしたちは、くりかえしたちかえってくることになるだろう。
けだしこの<雨>のもつ両義性は、<自我>の両義性の裏に他ならないからである。
(見田『宮沢賢治』 61-62頁)
「自我」はこの本の中心テーマです。見田さんは、あとがきで、この本を高校生に向けて書いたと言っていますが、「自我」というテーマは10代の若者の感受性にだけ訴えかけるわけではありません。とりわけ、賢治もそうですが、父親のような「戦争」を挟んで生きてきた世代、また、この国の地方の農村で暮らしてきた人々にとっては、自覚的かどうかはさておき、「近代化」していく社会とどう向き合って生きていくかという意味をも帯びていたと思います。それは小生も無縁ではありません。
見田さんは、同じ岩手県(現在の盛岡市)生まれで10歳年上の石川啄木と賢治を比較してこう書いています。
啄木と賢治を対比して松本健一は、啄木を近代詩人、賢治を現代詩人としている。
それはさしあたり、劇画やアニメや前衛的な舞台芸術といった表現の現代的な様式のための霊感を、賢治の作品が過剰に豊富にはらんでいることにもみられるが、このことは賢治の世界が、いつでもあの未知の次元に向かって離陸する風力をはらんでいることと関わる。
啄木はふるさとを出て東京に住み、そこでもさらにフランスやイギリスへのあこがれを燃やしつづけた。啄木はふるさとと<都>のあいだの、憧憬と郷愁の往復する心情の両極性という、近代化日本の青年の心情の基底を表現しつづけた。それは<東京>というものに、あるいはその延長にある世界の首都たち、パリやロンドンというものに、しっかりとした幻想をもつことができたモダニズムの時代のことばだ。
賢治も東京へのあこがれと無縁ではなく、幾度かの上京を経験しているが、賢治の資質は、結局東京やその水平の延長上の都、パリやロンドンに終着する幻想に住することを許さず、むしろ垂直に折り返して岩手自体の心象の気圏のうちに、<イーハトーヴォ>の夢を設営する。
(同 281-282頁)
小生も「折り返して」生まれた場所に舞いもどった口ですが、賢治はどうして岩手の心象に「回帰」したのか。見田さんは賢治の「自我」の揺らぎ、存在の震えの底に、単なる「孤独」や「闇」とは別の世界を見ているようです。
「アメリカ人は自分の死のことを考えないようにしている」というウィルバート・ムーアの文言(『時間の社会学』)を引き、これを近代の世界感覚の救いのなさの表現(つまりは「虚無的」)だと言ったあと、見田さんはこう書いています。
「アメリカ人」――つまりは現代の日本人をふくめての、近代人であるわたしたちの自我の、みたところの明るさとは反対に、<修羅>のイメージへと直結する賢治の自我は、暗いように見える。 けれどもわたしをおどろかせるのは、この修羅をとりかこむ世界、存在の地の部分ごときものの、まばゆいばかりの明るさである。
四月の気層のひかりの底を/唾し はぎしりゆきする/おれはひとりの修羅なのだ/(風景はなみだにゆすれ)/砕ける雲の眼路をかぎり/れいらうの天の海には/聖玻璃の風が行き交ひ/ZYPRESSEN春のいちれつ/くろぐろと光素を吸ひ/その暗い脚並からは/天山の雪の稜さへひかるのに/(かげろふの波と白い偏光)/まことのことばはうしなはれ/雲はちぎれてそらをとぶ/ああかがやきの四月の底を/はぎしり燃えてゆききする/おれはひとりの修羅なのだ/(玉髄の雲がながれて/どこで啼くその春の鳥)
……近代の自我の原型が、いわば偏在する闇の中をゆく孤独な光としての自我ともいうべきものであることとは対照的に、ここでの修羅は、いわば偏在する光の中をゆく孤独な闇としての自我である。
そらの散乱反射の中に
古ぼけて黒くえぐるもの
ひかりの微塵系列の底に
きたなくしろく澱むもの
『岩手山』というみじかい詩のなかで賢治は岩手山を描いているが、その岩手山は、宇宙に散乱反射する光の中に、黒くえぐられたひとつの欠如として表象されている。わたしたちがこの作品をとおして作者と共有するのは、存在の地の部分にこそみちあふれているいちめんのかがやきと光に向けられた感度のようなものである。
……わたしたちが「自我」のかなたへゆくということを、ひとつの解放として把握する思想を支えることができるのは、このような世界感覚だけである。
(同 164-166頁)
副題の「存在の祭りの中へ」とは、賢治が、修羅という、春から疎外され、偏在する光の中を進む闇の自己感覚をもちながら、その向こうに確実に<祭り>を見ていることを見田さん流に表現したものと思います。
最後に、賢治が「地層」になぞらえた「気層」として天空を見ていることについて。
……重積する気層としての天空への感受はさらに、<空間の中に時間を見る目>としての地質学の与える視覚と結びつくことをとおして、次のようなおどろくべき空間の像を展開することとなる。
まずひとつの補助線として。今ぼくたちのみているさそり座の赤い星(アンタレス サソリの火!)は、120年前の光を今の地球に届かせている。アンドロメダ星雲は約140万年前の光を地球に届かせている。逆にアンタレスの星からは120年前の地球の光景がみえ、アンドロメダ星雲の近くでは140万年前の地球が現象しているはずである。過去はこのように宇宙空間を波紋のように遠ざかりながら存在しつづけている。地層の空間がそうであるように天空の空間もまた、集積する巨大な時間の貯蔵所である。現在でも天文学好きの少年が一度はこの事実に打たれ、さまざまの想念をそそられるように、中学生くらいのころの賢治も一度は、この事実に打たれたことがあるにちがいない。
(同 269-270頁)
小生も「この事実に打たれた」少年だったし、見田さんもそうだったのだろうと思います。
『時間の社会学』や『現代社会の理論』などで見事な社会分析を披露してきた見田さんの著作のなかでは、やや異色な本書が、小生にとっては最も印象深く、また刺激的な一冊でした。どうか安らかにお眠りください。
(岩波現代文庫版 2001年6月刊 300頁 ※初出1984年刊)
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