ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

侮辱罪厳罰化と匿名性について

 「侮辱罪」を厳罰化(「適正化」)する改正刑法が一昨日(6月13日)の参議院本会議で成立しました。SNSで誹謗中傷を受けてきた人々、とりわけそのことで命を絶った人の遺族、関係する人たちは、この間身を削る思いで法改正に取り組んできたと思います。その労には敬意を惜しみません。

「SNSを悪者にしていたら何も変わらない」「やっと適正化された」 “侮辱罪厳罰化”受け木村響子さん、松永拓也さん、スマイリーキクチさんら会見 | 国内 | ABEMA TIMES

 そう思いつつも、法改正に向けた国会審議では「侮辱」か「正当な言論活動」かの線引きが曖昧にされてきたことに変わらぬ危惧を抱いています。巷では今後政治家を批判できなくなるのではと噂されています。この「抑止力」を国民による悪政批判の抑圧、政治家への抗議の声の封じ込めに転用=悪用させてはならないと思います。

 昨日(14日)の「一月万冊」でジャーナリストの佐藤章さんは、SNSの誹謗中傷の原因のひとつには匿名性があると言っています。

政治家の悪口も?「侮辱罪」厳罰化。改正刑法が可決成立。権力者が利用してしまうのか?それとも心ないネット中傷歯止めになるのか?元朝日新聞・記者佐藤章さんと一月万冊 - YouTube

……匿名ということであれば、何というのか、「旅の恥はかき捨て」ではないけれども、自分の本名とか、正体が分からなければ、何してもいいやという気持ちになってしまうわけです。それを防ぐには、お前の正体は全部分かってるぞと。本名がわかっていれば、誹謗中傷をする人はまずいなくなると思うんですよ。間違いとか、そういうのはあるかもしれないけど、悪意をもって、木村花さんや松永さんを傷つけたような、そういう中傷はなくなるわけですよ。まず、常識的な書き込みしかなくなるだろうなと思うんですよ。それからもう一つはSNS事業者が、まずいことがあった場合、アカウントを明らかにしないとまずいと思うんですよ。……

 「匿名」を隠れ蓑にして言いたい放題の人はいます。おそらく「匿名」でなければ相当数の人々が根拠もない、不当な罵詈雑言は吐けなくなるでしょう。しかし、佐藤さんが言っているわけではありませんが、匿名性が諸悪の根源ととらえるのは短絡的です。それは「匿名の効用」というか、匿名には弱い立場の人々を守る意味合いがあるからで、少なくとも権力関係の中では匿名性は守られないと、逆に危険です。国会議員の記名投票とはちがって、一般の選挙が秘密投票である理由も、これと関係しています。2年前の記事ですが、朝日新聞の2020年8月23日付記事に、「匿名の発言を守り抜くべきだ」とする声の紹介があります。

ネットの中傷、あなたは? 「匿名空間」がもたらす問題:朝日新聞デジタル

何を規制するか区分が重要である。とりわけ政治や行政、政治家や企業経営者など社会的責任のある人、評論家、オピニオンリーダーと言われる人への揶揄や皮肉を含む批判は自由であるべきで、権力による封殺を防ぐために匿名での発言を守り抜くべきだ。意識の底で意見の分かれる問題、例えば私は政治家の育休には否定的で、育児経験を政治に生かすなら一度辞職して育休が終了後再度出馬すべきだ、という意見であるが、日本はこれを実名で安心して自由に表明することが出来る社会だろうか。あなたがそういう意見を持つのは尊重するが、私は賛同しないし法制化や制度化には反対である、という発言を守るためにも匿名による意見表明は守り通さねばならない。(京都府・30代男性)

 小生のブログも匿名です。自己正当化するわけではないのですが、匿名だから自由に意見表明できる部分は確かにあります。対為政者や対政治権力についてはもちろんですが、日常のひとこまであっても人間関係を気にもむこともなく(壊さずに)、わりと自由に表現ができることはありがたいことです。書いたものが「一般論」として、他のどなたかに共感してもらえるなら、それはそれでうれしいことです。

 ブログにしてもTwitterにしても、出だしは個人の私見や私論かもしれませんが、共感する人や共有する人が増えれば、それはもう個人的見解とは言えません。よくも悪くも「私」のレベルを超越(逸脱)しています(それを「公論」と呼ぶかどうかはさておき)。専門家や識者の意見であれば、ますますそういう色彩を帯びるでしょう。出だしの私見私論にしても、当人のおかれた環境や社会情勢、これまで当人および社会に蓄積されてきた知識・技能などを広く考慮すれば、必ずしも個人のオリジナルとは言いがたいかもしれません。これに無理に「個人」や、さらには「知的財産」などという枠を当てはめようとするのはビジネスの発想で、言論の本来のあり方とは別物です。

 2015年に亡くなった鶴見俊輔さんは、座談集のひとつ『近代とは何だろうか』(1996年)の「あとがき」でこう書いています。

……言語を(あるいは内的言語としての思想を)、自分の意図によって十分におさえきって、自分の思想を述べるという流儀にたいして、私たちは前ほどの自信をもたなっくなっている。
 言語表現だけではない。鷲田清一からおしえられたことだが、自分の顔が自分のものだという主張さえなりたちにくい。鏡で見る自分の顔は、もはや実際とは左右反対であり、すでに何かに投影されているのだから、自分の顔とは言えない。この点ではむしろ他人のほうが、私の顔をよく見て知っている。自分の顔のように、自分のものであることが自明であるように考えられてきたものが、よく考えてみるとすでに自分の所有をはなれてさまよいだしたのだから、その他の、自分に属する自分の各部分、自分の人生の部分が自分からさまよいだすのも、さまたげることはできない。
 自分の死は、自分に属さない。むしろ他人の死のほうが、自分に属する。
 そういう逆説が、私たちにひたひたとおしよせている。そこのところが、明治・大正・昭和の近代日本と平成現在の日本との思想上の位相のちがいである。にもかかわらず、「私は私で自明のものだ」という意識は、明治・大正・昭和戦前をこえて、戦後の昭和に育ってゆき、平成の年間にさらに肥え太っている。
 どこまでが私かふたしかなままに「私」「私」と言い、どこまでが私の自由になるかわからないままに私の言い分をのべている。私が確固としてあるふりをして、そのふりにもとづいて商取引をし、法律上の行為をつみあげてゆく。この、私としてのふりがふえていることが、日本の現在の、戦前に対してもつ特色であり、その私が確固としたものでないことの自覚の深まりが、これもまた現在の日本の思想の特色である。……
※太字部の原文は強意の傍点付き
(『鶴見俊輔座談 近代とは何だろうか』 439-441頁)

 SNSの誹謗中傷は卑小で下劣なだけかもしれませんが、そこにも「私」の肥太りがあるように思います。誹謗中傷をする側の7割が自分は正義感から投稿したのであって、これは誹謗中傷には当たらないと、その「公的」性格、(主観的な)「正当性」を主張するといいます。しかし、その「正義感」にしても、ネットで同種の感情表現ばかりを見たり、他の誰かが自分の投稿に反応するから「調子」に乗ってしまうわけで、一切誰も反応しなかったら、止めるでしょう。要は、誹謗中傷も「私」だけで成立しているわけではないのです。
 被害者と加害者はセットですから、法律上、被害を訴える人がいれば加害者は特定しなければなりませんが、そのためには「私」で括りきれないものに無理やり「私」の線引きを施さなければなりません。そのとき、線引きで外れたり網から漏れた「私」はそれでセーフになり責任がないことになってしまいます。しかし、それは単に罰を与えられる対象から事務的に外されただけで、これでは、法規制にありがちな、罰せられなければいいという方向に進みかねません。SNS上の誹謗中傷を防ぐために個人の厳罰化に頼るのは、いじめが陰湿化隠蔽化されるのと同じように、より見えにくいところへと拡散ないし流出していく漠とした不安があります。亡くなった木村花さんの母・響子さんが話していたとおり、これで終わりにしてはならず、今回の「厳罰化」はスタートと考えるべきです。

 公私の境界は、鶴見さんがこれを書いた「平成」時代よりもさらに不分明になり(され)、過剰な「相互乗り入れ」が進んでいるように見えます。SNS上には匿名による無責任な「公的」言論があふれる一方で、為政者の側は、「首相夫人は公人でなく私人」と閣議決定したり、「(首相にも?)表現の自由がある」などとトンチンカンなことを言ったり、説明すべきことに「コメントは差し控える」と述べてみたり、「文通費」を私費に流用したり……と、公的責任とプライベートを混同させる乱暴な言行は依然として続いています。公たる政治の「私物化」に侮辱罪の厳罰化を絡め取られないように警戒を怠れません。同時に、自身のコメントが無責任な妄言にならないよう、戒めないといけないなと思います。






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