ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

前川さんの記事2つ 

 「憲法の逆さ読み」というのがある。条文を逆の意味になるように変えた上で、改めて読み直してみるという一種のゲームなのだが、普通にそのまま読むよりも憲法条文の重さを感じることができる。確か、半世紀くらい前の教員の授業実践がまとめられた本か何かに書かれていたものだと思うが、もうその出典もわからない。

 それにならって、たとえば、日本国憲法・第15条の条文の一部を「逆さ」にしてみるとどうなるか。

<元の条文>
すべて公務員は、全体奉仕者であつて、一部奉仕者ではない。

   ↓
<逆さ条文>
すべて公務員は、一部奉仕者であつて、全体奉仕者ではない。

 改めて読み直し、どうしてこのような条文がつくられたのかを想像するに、それは、日本国憲法の前の「大日本帝国憲法」の時代では、公務員は一部(上級国民?)のために奉仕し、国民全体への奉仕などどうでもよかった。その結果かどうか、戦争によって国民全体に多大なる犠牲が強いられることになった。戦後は、それを反省してこの条文はつくられたのだろう云々と。実のところは何も知らないが…。

 しかし、逆さ条文のはずが、それが今のこの国の現状を追認しているとなると、これは苦笑している場合ではない。
 たとえば、千葉県ではあまり馴染みがないが、薬局大手の「スギ薬局」(愛知県)の創業者夫妻が、市のはからいで(当初は市の担当者から断られたらしいが…)コロナ・ワクチン接種の予約枠を優先的に確保していたことが先週わかった(非難ごうごうになったが、発覚しなければそのまま接種していただろう)。

スギ薬局会長にワクチン優先予約 市が“特別扱い”した理由|日刊ゲンダイDIGITAL

 その後、芋づる式に、いくつかの自治体の首長ほか上役の公務員らも、“秘かに” ワクチンを接種していたことがわかって、庶民感情を逆なでした(首長が高齢者よりも先にワクチンを接種すること自体に賛否はあるが、“秘かに” やっていたというところに「特別扱い」の “やましさ” や “後ろめたさ” があるように思う)。

 一部を利するような「特別扱い」をしないというのは、全体の奉仕者たる公務員として、当然のふるまいだが、上の例のように、時と場合によっては、それが曲げられる事態に立ち会わされる。加計学園の認可をめぐって行政に不当な圧力と歪みがあったことを証言した元文部科学省事務次官前川喜平さんもその一人だ。前川さんは文科省を退職後、各地で講演をしているが、その活動に対していろいろな圧力があるようだ。新聞のインタビューのなかで、今の状況、自治体の右へならえの思考停止状態などを憂いている。

 5月16日付(要約)と5月10日付の朝日新聞の記事を以下に引用する(聞き手:中村尚徳記者)。

「政権に批判的」だと後援不可 前川喜平氏と表現の自由:朝日新聞デジタル

 前川喜平さんは2019年3月、栃木県大田原市で「これからの日本、これからの教育」と題し講演した。主催した実行委員会は周辺の自治体や教育委員会に名義後援を申請したが、すべて不承認だった。「(他の講演会で)現政権に批判的な発言が見受けられた」(大田原市那須塩原市)、「政治的な発言をされると後援できない」(那須町)などがその理由。
 前川さんは2017年、国家戦略特区を使った獣医学部新設問題で、「加計学園が官邸の意向で優遇されたことをうかがわせる文科省の文書が存在した」と認め、「行政がゆがめられた」と政権を批判していた。主催者側は「時の人だった前川さんの話を聴きたいと、2年前から計画した」「広く参加を呼びかけ議論しようと後援申請した。何事も賛否両論があるのは当然。一方の意見だけしか採用しないんだったら民主的な議論は成り立たない」といぶかる。前川さんも「政権を応援する人なら後援したのでしょうか」「権力側が公平・中立性を持ち出すのは、批判を封じ込めたいから。そもそも政治権力に迎合するような表現・言論は制限する必要がありません。権力への批判が認められてこそ、表現や言論の自由があると言えるのですよ」と述べる。
 同じ頃、広島県山口県などで催された前川さんの講演会でも、地元教委が政治的中立性を理由に後援申請を断っている。前川さんは「政権に逆らっちゃいけないという雰囲気や萎縮効果が日本中に蔓延している」と言う。
 18年4月、北九州市であった前川さんの講演会。司会をした市議が嫌がらせを受け、脅迫状が送りつけられた。大田原市の会場周辺にも右翼を称する団体が集まり、拡声機で大声を発した。講演会の約1週間前には、主催者代表の自宅に匿名男性から電話が入り、「日本から出て行け」と怒鳴りつけられた。
 前川さんは思う。「異論排除の動きが草の根に浸透している。萎縮する人がたくさん出てくると本当に危ない」。


社会全体が「権力に弱い体質」に 前川喜平元次官の警鐘:朝日新聞デジタル

 第2次安倍政権以降、権力に忖度する態度が日本中に蔓延している。元々あった風潮がさらに強まってきた。その傾向を痛感したのは昨年(3月以降)の一斉休校。どう考えても科学的根拠はなかった。必要性のある地域もごく一部あったかもしれないが、全国で一斉休校する理由はなかった。
 文科相でさえ抵抗したのに、安倍晋三首相(当時)の言い分が通った。ほとんどの自治体が右にならえした。もう思考停止状態。ろくに議論せず、自ら判断せず休校をズルズル続けた。
 その結果、計り知れない悪影響が出た。学習遅れ、体力低下、スマートフォンやゲーム依存、家庭内の虐待。自殺する子どもも増えた。高校生以下の自殺者は毎年300人以上いたが、昨年1年間は1980年以降で最多の499人だった。
 常に存在しなければならないはずの批判が封じられるのは、民主主義にとって大きな問題だ。社会全体が権力に弱い体質になっている。忖度だけじゃない。露骨な政治圧力もあった。

 2018年2月、名古屋市立中学校で私が出前授業をした際、自民党文部科学部会長と部会長代理が、授業内容の録音データを出せと文科省を通じ学校に要求した。文科省が個別の授業に対して口をはさむのは越権行為。教育基本法が禁じる「不当な支配」だった。
 「萎縮」は学校の現場にも及んでいる。教師には必要以上に「政治的中立性」が求められ、支持する政党や候補者を口に出すことすら、はばかられる空気に支配されている。
 しかし、高校には18歳以上の有権者がいる。文科省は15年に現実の政治問題を授業で扱うように、との通知も出している。その一方で、教師には政治的見解を述べることを禁じている。
 自分の政治的見解を持っていないような教師が政治教育なんてできるわけがない。教師は自分の意見だけでなく、反対の意見もちゃんと示す。そして生徒に議論するよう促す。それこそ本当の政治教育ではないか。
 文科省は自分で考えない、判断できない生徒像を想定している。主体性のない生徒を前提にしているから、結局、主権者を育てることにならない。そこに大きな問題がある。
 長い間、学校の現場で教師の「政治的中立性」が言われてきた。当然、認められるべき政治活動や表現行為も抑えられ、そのことによる萎縮効果は様々な方面にも及んでいる。
 日本学術会議の任命拒否も、本当の理由は拒否された6人の政権批判の言動にあるのは間違いない。19年夏の参院選で、安倍首相の街頭演説にヤジを飛ばした人が警察に排除されたのも表現行為が力ずくで封じられた例だった。
 その結果、お上には従っていればいい、という意識がはびこっている。いまの日本はファシズムに入っていると思う。


 憲法に書いてあることを日々の暮らしに生かすことがいかに大切だったかを、今の状況下で身に染みているのは小生だけではないと思う。



↓ よろしければクリックしていただけると大変励みになります。


社会・経済ランキング
にほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
にほんブログ村