ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

「戦後の終焉」と改憲 保阪さんの話

 「お題目のように唱えるだけの憲法(理念)はもうたくさんだ」――だが、問題はその続きで、だから、「お題目」にしないで書いてある(憲法理念)とおりにやるべきだ、と考えるか、あるいは、嘘くさい「お題目」はやめにして憲法(理念)を変えるべきだ、と考えるか、これは大きな分かれ道だ。
 
 人の調べたものだが、「憲法改正」(改定ないし変更とは言わないところがもう世論誘導的!)について、今年の5月に各メディアが行った世論調査の結果は以下のとおりとのこと。

 共同通信:必要57%  不要42%
 ・読売新聞:必要56%  不要40%
 ・産経新聞:必要52.6%  不要34.9%
 ・毎日新聞:必要48%  不要31%
 ・朝日新聞:必要45%  不要44%
 ・NHK :必要33%  不要20%

https://www.newspaper-ama.com/entry/2021/05/03/102303

 
 昭和史研究家の保阪正康さんは、インタビューでこう言っていた。
朝日新聞11月5日付記事より(聞き手:駒野剛編集委員)。

「哲理なき現状維持」選んだ国、行政の独裁に歯止めは 保阪正康さん [2021衆院選]:朝日新聞デジタル

「戦後が死んでいくのか」
 ――今回の選挙結果は何を意味すると考えていますか。
 「三つの分析をしています。一つは国民は何にも増して現状維持を望んだということです。コロナ後を見据えて、何を最初に変えなければならないか、といった差し迫ったことがない中で、とにもかくにも現状の安定を求めたと思います」
 「二つ目は、日本維新の会公明党、国民民主党など、自民党に考え方や政策などで近接した政党が伸びたということです。逆に距離感がある立憲民主党共産党が減らした。総体的に保守勢力の追認という枠内にあり、護憲・戦後体制の崩壊、あるいは空洞化という結果になった。戦争体験などは検証されず、戦後が死んでいくのか、という思いを強く持ちます」
 「そして立法府の無力化が更に進むのではないか、という懸念が三つ目です。野党が生き延びるには、立法府で自分たちの政策を明確にして政権と戦うことが必要ですが、与党はなかなか国会を開きません。戦後の議会政治の歩みの中で、今ほど無性格、無人格、無哲学なことはなかったでしょう」
 「つまりは哲理なき現状維持です。衆院選で展開されたのは政策論争とは無縁の選挙運動で、この国をどこに持っていくのか全く不明で、先行きに恐ろしささえ感じます」

 ――二つ目の点に関しては、維新の躍進で、改憲容認勢力が3分の2超に達しました。
 「戦後の終焉(しゅうえん)とは、そうした結果を踏まえたからです。具体的にどの条文という前に、改憲するという大網をかけて議論をしていくのでしょうが、混乱するでしょう。今の憲法は非軍事的憲法で、戦争体験という歴史と対になっています。日本だけの都合で憲法を変えるわけにもいかないでしょう。日本やドイツは国連憲章の中で連合国に対する『敵国』にくくられており、条文、とりわけ9条に手を加えることがどう受け止められるか。狭い視野だけでは語れません。歴史的に議論すべきことが数多くあるのです」

 ――三つ目の点では与党の多数支配という基本構造が続きます。
 「安倍、菅政権で、政府の意向が先行し、国会があってなきような『行政の独裁』ともいうべき状況が続いて来ました。衆院選では、死んでいるような立法府復権できるのかどうかや、有権者が政治に参加する意味が問われたと思います」

 ――安倍政権は「安全保障関連法」で集団的自衛権を事実上解禁し、菅政権は日本学術会議の会員の任命を拒否しました。また両政権とも、野党の国会開会要求を無視し続け、憲法にのっとらない政治を続けました。
 「それが典型的な行政の独裁の表れです。行政の独裁は前例があります。戦前、戦中の日本では、軍部が行政権を握って独裁政治を繰り広げました。彼ら軍人は兵器や作戦のことはわかっても、政治や行政の素養はありませんから、とんでもないことが続きました」
 「代表例を挙げます。1943(昭和18)年元日の朝日新聞に、衆院議員中野正剛が『戦時宰相論』という文章を寄稿しました。戦争中の首相は強くなくてはいけないという意見ですが、首相・東条英機は自分のことを非難したと曲解し、中野が国会に出られないよう、司法当局に起訴するよう働きかけます。しかし、中野の主張は当時の憲法が認めた言論の許容の範囲内で違法ではないと反論されると、今度は自分の思い通りになる憲兵隊を使って中野を監視し、ついには自殺に追い込んでしまいます。憲法で認められた以上の権力が自分にはあると東条が考えた結果です」

 ――安倍政権による行政の独裁と言える他の例はありますか。
 安倍晋三さんは首相在任時、何度か『自分は立法府の長だ』と言いました。司法、行政、立法の三権が分立して互いにチェックし合うのが議会制民主主義の基本のはずで、首相は行政府の長です。しかし、死んだに等しい立法府を思うがままに支配できた安倍さんは、まさに立法府の長だと考えていたのでしょう」
 「森友学園の問題が国会で追及された時、『私や妻が関係していたということになれば、それはもう間違いなく総理大臣も国会議員もやめる』と答弁しました。そして後に『関係』とは贈収賄という趣旨と説明しました。これは行政府の長である首相が言うことではありません。有罪か無罪かは司法が判断することであり、自分の考えを述べることは司法への介入に等しい。そのツケは、官僚が行政文書の改ざんで整合性をつけることに発展してしまった。首相発言の責任は極めて重大です」

 ――菅政権はどうでしょうか。
 「学術会議問題は、戦前の天皇機関説事件で憲法学者美濃部達吉貴族院を追われ、京大法学部教授が自由主義思想を理由に免官処分を受けた滝川事件に匹敵する言論、学問の自由を踏みにじる事態です。ただ、天皇機関説事件は、問題にしようとする先導者がいて、その意見が国会に広がり、政府が抑えきれなかったという過程をたどりました。しかし学術会議問題は、菅政権が最初にカードを切りました。憲法の信任への政権による侵害の深刻さは、菅政権の方がひどいと思います」

敵を想定し、敵地を侵攻するという狂気
 ――なぜ軽々と憲法が踏みにじられるようになったのでしょう。
 「私は亡くなった2人のノンフィクション作家、半藤一利さん、立花隆君と大変親しくさせてもらっていました。7、8年前、立花君が『戦争体験を次の世代に語るのに力を入れようと思っている』と話していたのが印象的です。彼によれば、戦争を知る世代と知らない世代とでは違う意識を持っているが『戦争の時代と現代とは、隔絶しているのではなく地続きなのだ』ということでした。地続きである以上、戦争を起こした社会、権力、制度などの中にも現代に残った要素があり、何かをきっかけによみがえりかねない。だから戦争体験の悲惨さを語り継ぐことが重要なんだ、というのです。今、こういう時代を迎えて、その言葉の重みをかみ締めています」
 「半藤さんと私は『憲法を百年いかす』ことを唱えていました。半藤さんは100年を単位としてとらえ、どんなことでも100年続けば、やがて強固な思想になる、と言っていました。憲法については、互いの考えの違いはありましたが、とにかく100年間いかせば不戦は日本の国家意思となる、というのが主張の理由です」
 「しかし、岸田文雄首相は憲法に反する『敵基地攻撃能力』の保有について『あらゆる選択肢を検討する』と否定せず、自民党の公約で軍事費の大幅増を掲げました。とんでもないことだと思います。専守防衛から敵地侵攻へ転じることは、まさに地続きの戦前への逆戻りです」

 ――中国の軍事的台頭や北朝鮮の核ミサイル開発を考えると、敵基地攻撃論も一定の説得力がありそうですが。
 「かつて、中国国民党トップの蔣介石の養子で日中戦争に携わった蔣緯国から対日戦略を聞いたことがあります。彼は『日本は必ずナポレオンやモンゴル帝国と同じ末路をたどるとみていた。侵略を始めると際限なく繰り返していく。なぜなら、反撃されることへの恐怖が深化して残酷になり、最後は崖から落ちてしまうのだ。だから直進一方の日本軍を奥地に引き込んで、兵站(へいたん)が切れた時に徹底してたたこうと考えた』と」
 「歴史は、まさにその通りになったわけですが、敵を想定しその敵地を侵攻するという狂気は、一度始めると際限がなくなるのです。そうした魔性を分析しぬいていれば敵基地攻撃論などという考えが出てくるはずがありません」

 ――岸田政権も、憲法を軽んじる姿勢は同じということですか。
 憲法が国政の大前提としている議論の大切さを考えれば、首相指名された後、予算委員会も開かないで解散総選挙に打って出た岸田首相の姿勢は、安倍、菅両政権による憲法をないがしろにする政治と同種と見なさざるを得ません。極めて残念です。現在の政治で最も問われていることは、どうしたら憲法を、どうしたら参政権を、どうしたら立法府を生かすことができるか、だと思います」
<以下略>

 「憲法を変えるべきだ」と考える人たちには「変える」こと自体が目的化し、変えたあと、日本がどういう国や社会になるのか、あまり想像していない人たちがいる、という指摘がある。これは保阪さんが、「具体的にどの条文という前に、改憲するという大網をかけて議論をしていく」と話しているとおりで、本丸は9条であるにしても、とりあえずは9条でなくとも、緊急事態条項でも、教育無償でも、世論がなびく魚が網にひっかかれば何でもいい。その結果、法律につじつまが合わなくなっても、曲芸的な継ぎ接ぎをしてしのげばよいと。しかし、解釈の余地が広がったり、抜け道や例外だらけになったら、権力をもつ側のやりたい放題になるのは目に見えている。それはもう法治国家とは呼べない(今だってもうそうなっているのでは…)。
 憲法を変えることは統治の根幹を変えることに行き着くはず。本当にそんなことを国会の数の力だけでやろうというのだろうか。

<追記>
 二度見してしまったが(笑)、本ブログとは別人の「新ペンは剣よりも強し」さんがTwitterにこう書いている。
 引用をお許し願いたい。
https://twitter.com/mcenroeisgod/status/1457814307643662338
https://twitter.com/mcenroeisgod/status/1457811947882049548

人類普遍の原理が時代にそぐわないなどという意味不明な寝言を言う人が多いんですが、人類普遍の原理とは何があっても永久に正しいという意味なんですよ
だから人類普遍の原理が時代にそぐわないなどということは永久にありえないんですよ
日本語わかりますかね?

憲法が時代にそぐわないのではない
時代が憲法にそぐわないのだ
だから改正すべきは憲法ではなく時代のほうだ






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