ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

寿都町のこと

 小生の住むところは田舎ではあるが「過疎地」ではない。ただ周りは高齢者ばかりで、朝夕の登下校の時間帯に送迎らしき車は通り過ぎていくが、子どもたちが通学する姿というのはほとんど見ない。学校も統廃合されているし、将来的に人口が増える見込みはほとんどない。
 千葉県の田舎に限らず、工業団地をつくったり、大店舗や大学を誘致したり、町おこしのプロジェクトを立ち上げたり……と、全国の自治体がいろいろと手を尽くし、何とか一定レベルの財政規模を維持しようと努力している。中にはうまくいっている(ように見える)市町村もあるが、内情はいろいろだろう。

 むかし札幌の知人に千葉県のいすみ鉄道は木原線が廃線になった後にできた路線だという話をしたら、千葉県にも廃線になるような地方路線があるのか、北海道と同じなんだ、とびっくりしていた。大都市・東京に隣接する県にも「過疎」の影響があるのは意外だったのかもしれない。しかし、今やその「東京」でも、「過疎」や「少子高齢化」の波は確実に押し寄せている。「空き家」問題はその一例だろう。地方の荒れ地と都市の空き家——問題の根は同じだ。

 昨晩TBSの「報道特集」で北海道の寿都(すっつ)の様子がリポートされていた。40キロ北には泊原発がある寿都町は、神恵内(かもえない)とともに、原発の高レベル放射性廃棄物、いわゆる「核のごみ」の最終処分場選定の文献調査に名乗りをあげている。
 人口3千百万余りのこの町を、今後どうしていくのか、町長も思い悩んだ末の決断だったのだと思う。しかし、これを周知することなく進めるやり方は住民からは理解されない。「子どもたちに核のゴミのない寿都を!町民の会」の共同代表の方は、町長の姿勢を「民主主義への冒瀆だ」と批判しつつ、「憎しみではなく、町民が穏やかな気持ちで長く闘っていかないと」と述べたという。町の将来を思って議論するには、このベースが欠かせない。

 今朝、テレビ朝日の番組テレメンタリー2020で「過疎を取るか核を取るか『核のごみ』処分場に揺れるマチ」が放送されていたことを知ったが、何せ朝4:30からの放送だったのですでに終わっていた。その代わり、制作プロデューサーの金子陽氏HTB報道部)のコメントを見つけたので、下に引用させていただく。

SODANE - 「過疎を取るか 核を取るか」イギリスの小さな島で見た現実

「東京の人たちが使う電気は、隣の福島で作っているんだよ」
 山形で生まれ育った私。中学校の授業で恩師が話したこの言葉が、今も記憶に残っています。東京では莫大な電気が必要だけども、原子力発電所は何かあったら危ないから、都会じゃなくて田舎に作られるんだ。そんな話を聞いて、理不尽だなあと子供ながらに感じたものです。約15年後、その福島第一原発で世界最悪レベルの事故が起きました。私の故郷の街では、今も原発周辺から避難した住民が暮らしています。
 日本各地を見渡しても、原子力関連施設は泊原発しかり、下北半島若狭湾など、やはり人口が希薄で財政基盤の弱い「過疎のマチ」に作られている。そうした地方のマチに、巨額な交付金で誘致を促してきた日本の原子力行政・・・歴史は繰り返され、いつしかそれが当たり前のことになってしまいました。

「核のごみ」に揺れる北海道の2つのマチ
 原発の使用済み燃料から出る高レベル放射性廃棄物、いわゆる「核のごみ」。その最終処分場選定の第1段階となる文献調査に、北海道の寿都町神恵内村が名乗りをあげました。2つのマチは、急速な人口減少と産業の衰退という共通の課題を抱えています。文献調査が始まれば、国から2年間で最大20億円もの交付金が渡されます。

イギリスで見た「原発依存の島」
 過疎のマチに「核」が押し付けられる。そんな構図は日本だけではありません。ANNロンドン特派員の任期中、私はイギリス・ウェールズ北西部のアングルシー島を取材しました。産業革命から長年栄えた銅鉱山が閉山し、新たな産業として持ち上がったのが原発。かつて炭鉱があった泊や福島と同じような歴史です。1971年に稼働を始めた原発は老朽化で運転を停止し、今は廃炉作業が進んでいます。美しい海岸線にそびえる無機質で巨大な原発の建屋は、異様な光景でした。
 この原発の隣接地に、日本の日立製作所が最新鋭の原発の建設を計画していました。苦戦が続いていた日本の原発輸出政策の「最後の砦」でしたが、安全対策などの莫大な費用が調達できず、2019年1月に建設計画は凍結されたのです。

「子どもたちに未来はあるのか」
 アングルシー島原発運営会社は、地元住民向けに暖房器具の無償提供やパブ、郵便局の運営資金の助成をしていました。いわゆる「原発マネー」です。急速な少子高齢化が進む島では、9000人の雇用が見込まれる新たな原発建設に、住民の7割近くが賛成していました。「原発がなくなったら、子供たちに未来はあるのか」。建設凍結を知った地元住民の落胆の表情が忘れられません。
<以下略>


 「子どもたちに未来はあるのか」——この問いに「原発マネー」で暮らしやすい町をつくるというのもひとつの答えかもしれないが、いったんそれで暮らしが潤い始めたら、なかなか元には戻せないだろう。他方、“貧乏でいいから核のごみを受けないで”というのも「子どもたちの未来」を考えたひとつの答えだ。放射線と同じ時間を私たちが生きられない以上、未来の放射線の責任を負える人は誰もいない。こうした町民の声に耳をふさがないでほしいと思う。



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