子どもの頃、岡山県と鳥取県の県境・人形峠がウランの産出地であることを知りました。学習用の地図帳には、人形峠に鉱山記号があり、その下に赤字でウランと入っていたことをおぼえています。しかし、このウランと核、とりわけ原子力発電との関係を、当時はまだよくわかっていませんでした。
時は移り、原発事故なども経験して、小生もそうですが、多くの国民が原子力発電を礼讃するわけにはいかないと感じています。人形峠のウラン鉱山はすでに閉山される方針とのことです。
今朝の毎日新聞のトップは、この人形峠から、撤去しなければならないウラン鉱石ほか、国内で処理できない核関連物質を、「精錬委託」を理由に、アメリカに引き取ってもらう計画があることを伝える記事でした。
ウラン鉱石、米に輸出へ 使い道なく「製錬委託」 原子力機構 | 毎日新聞
クローズアップ:国産ウラン夢破れ 厄介物を長年放置 | 毎日新聞
しかし、この核関連物質の中に国内では使い途のない「ゴミ」が含まれるとしたら、海外に持ち出して「処分」することは、「核のゴミは発生地で処分する」という原則に反します。実際、「処分」先のアメリカの住民からは、当然のことながら、反対の声が上がっているといいます。おまけに、その「処分」に血税が注ぎ込まれるというのですから、ますます看過できません。
これはこれで大問題なのですが、これとは別に、記事を読んでいて、気になった点がもうひとつあります。これは、もうウンザリするほど耳にしてきた文言ですが、「政府は丁寧な説明を尽くす必要がある」という表現です。前後の連なりがわかるよう記事から引用すると、以下のとおりです(※下線は当方が施したものです)。
……戦後復興から高度成長期にかけ、日本にとって原子力は「夢」だった。人気アニメの主人公は「アトム」「ウランちゃん」と名付けられ、関西電力は大阪万博(70年)に「原子の灯」を送電することを夢見て美浜原発を建設。高速増殖原型炉もんじゅは「夢の原子炉」と呼ばれた。大手電力の社長を務めたある財界人は「被爆国・日本が見た最大の夢は『核の平和利用(原発)』だった」と言い切る。
しかし、今、直視すべきは夢ではない。現実だ。
自前のウラン調達を断念した日本が生み出した政策が「核燃サイクル」。原発で使い終えた燃料から核分裂していないウランなどを回収し、再び原発の燃料に使う「夢の計画」だが、トラブル続きで実現のめどはたっていない。
今回のウラン鉱石の移出先は米西部4州(ユタ、コロラド、ニューメキシコ、アリゾナ)が接する「フォーコーナーズ」と呼ばれる地域とみられている。現地には先住民族の居住区があり、ウラン鉱石の持ち込みに反対の声も上がっているという。サプライチェーン(供給網)が世界中に張りめぐらされるようになった今、国家や企業に求められているのは、サプライチェーン全てで人権侵害の有無を把握する「人権デューデリジェンス」だ。
夢の後始末を海外に押しつけることにならないか。政府は丁寧な説明を尽くす必要がある。
(8月20日付毎日新聞朝刊1面「ウラン鉱石、米に輸出へ」)
厄介な核物質がなくなることで胸をなでおろす日本。一方、持ち込まれる可能性がある米国の製錬場周辺には、先住民の居住地域がある。環境NGOや米メディアによると、住民などから製錬事業自体に反対する声が出ている。海外に核原料物質を「厄介払い」したと批判されないためには、機構や国の丁寧な説明が必要となる。
(同・3面「クローズアップ 国産ウラン夢破れ」)
「丁寧な説明」――使い勝手がよいのか、ここ数年で政治家や官僚から、テレビのキャスター、コメンテイターまで幅広く使われ、一般に認知されている表現ですが、個人的にはかなり問題のある「方便」だと思っています。
だいたい、「丁寧な説明」と称して、内容的に「丁寧」な説明だったと感じたことなど、ほとんどありません。これは、説明をする者(A)、される者(B)、第三者(C)に分けて考える必要があろうかと思います。まず、記事にあるような「丁寧な説明が必要」というのは、その「説明」によって、説明を受ける側(B)が「納得」「理解」するという了解がなくてはなりません。しかし、大抵の場合、Aは、Bの「納得」や「理解」を得たいなどとは全然思っていませんから、口ほどに「丁寧」な「説明」などはしません。質問も受け付けず、一方的に言いたいことだけしゃべったり、中には、下村博文衆院議員のように、後で説明すると言ってそのまんま、ということさえ常態化しつつあります。彼らの言葉づかいを見ていると、言い放つ言葉はウソというより、反対の意味ではないかと思えるほどです。
それなのに、なぜ、わざわざ「丁寧」という修飾を施すのか。最終的に、相手をバカにしているだけと言われたらそれまでですが、相手方のBからすれば、Aから「丁寧」な説明を聞いて、疑問を解消し、納得したいという気持ちはあります。だから、Aが自ら「丁寧な説明をする」と称する場合、私(A)は相手(B)の心中に寄り添ってますとアピールする面(好感度効果)はあるでしょう。しかし、本当のところは、この「丁寧」さのアピールは、Bよりも、それを見ている第三者(C)に向けて言っているようにも思えます。説明が足らなかったり(しなかったり)したら、Bは不満で、時に怒りを感じるでしょうが、実はAにとっては、BよりもCが怒り出す方が恐怖感があるのでは、と思います。CはBとちがって特定できません(姿が見えません)。世論と言い換えててもいいかも知れませんが、メディアも含む有象無象です。今の時代、怒りに火がつくとSNSで集中砲火を浴びて大炎上ということもあります。
では、新聞記者が記事で、国や政府は「丁寧な説明を尽くす必要がある」「丁寧な説明が必要となる」と書く場合は、どうなのでしょうか。記者としては、当然、Cとして記事を書いていても、Bの立場に立って、Bが納得・理解するように説明してほしいという気持ちはあるでしょう。しかし、実のところ、AはBの納得より、Cの理解の方が気になるのだとしたら、Cは、これで終わりにしてはいけません。Aが「求められた」ことをしたのか、「必要なこと」をしたのか、という問いをセットにしなければならないでしょう。「説明を尽くす」など、言葉としては数文字ですが、これは並大抵の話ではありません。当然、それには事後検証が必要で、時間もかかるし、他の第三者(C)に向けても訴えを続けていかなければなりません。しかし、これをなおざりにすると、結局、口だけの説明をするAと同じことになります。重要なのは、くり返しますが、説明を受ける側(B)が「納得」「理解」するかどうかです。これを忘れると、こっち(A)の説明は済んでますから、これ以上説明は不要です、といった類いの逃げを許すことになります。
一週間前に「自民党話法」について書きましたが、新聞記者は、こういうのに染まって、与することがないように、「国民に寄り添う」とか「国民の目線で」とかも同じだと思いますが、むしろ、この種の表現が頭に浮かんだら、反射的に別の表現を使うように心がけた方がよいと思うのです。
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