ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

最高裁、国の原発事故の責任認めず

 最高裁判決に、検察の判断にと、相次いで絶句した昨晩でした。
 
4訴訟の原告「判決許せない」|NHK 福島県のニュース

ウィシュマさん死亡問題、入管幹部ら不起訴へ 名古屋地検:朝日新聞デジタル

 最高裁判決については、今朝(6月18日付)の朝日新聞小熊英二さんのインタヴュー記事がありました。
 今回、国の監督責任が認められなかったことにより、電力会社は国に言われなくてもあらゆる災害リスクを予測して安全対策をしなければならなくなり、電力会社のハードル(だけ)が上がったかたちです。
 以下、要約です。

原発の「安全神話には頼れない」小熊英二さん、判決に見たあいまいさ:朝日新聞デジタル

……そもそも原発とは、核を扱うものなので、過酷事故がおきたら民間企業が負担しきれない可能性がある。そのため米国では事業者の賠償責任額に上限があり、それを超えたら大統領が議会に補償計画を提出することになっている。つまり最後は国が補償する。最終責任は国にあることになっている。
 ところが日本では、国の責任が明確にされてこなかった。
 1961年制定の原子力損害賠償法によれば、原発事故の賠償は事業者が負担することになっているが、事業者の手にあまる事故が発生し、賠償が一定額を超えた場合は、国が事業者を「援助」すると定められている。国と事業者のどちらに最終責任があるのかは明確にされていない。米国と同じく国が最終責任を負う制度も検討されたが、省庁の反対で実現しなかった。
 日本の原発は、誰が最終的な責任を負うのか、あいまいなまま運転されてきた。その結果、過酷事故は起こらないという「安全神話」が生み出された。事故が起きたら誰が責任を負うのか不明確であれば、「事故は起きないはずだ」としておくのが無難だ。
 しかし東京電力福島第一原発の事故が起き、責任の所在が現実の問題になった。それはまず、事故対応に現れた。
 原発は核を扱うため、事故対応では誰かが死ぬ危険性がある。しかし、民間企業では、死ぬ可能性が高い仕事を従業員に強要できない。原発の過酷事故は、民間企業の手に負えない局面がありえる。
 旧ソ連チェルノブイリ原発事故では軍隊が最終的に対応した。米国では連邦緊急事態管理庁が軍隊などに命令して、原発事故に対応できるようにしている。
 しかし日本では、過酷事故は起きない前提で運営し、責任の明確化や制度の整備を不十分なままにしてきた。……

 国策に乗って原発事業に勤しんでも、あとでハシゴを外されるのがおちです(東芝を見てください)。この判決にも同じものを感じます。企業もいいかげんにエネルギー転換に本腰を入れないと世界の潮流から外れるばかりでしょう。
「総崩れの原発輸出 原子力政策見直しを」(時論公論) NHK解説委員室


 それにしても、事故から11年。人命を失い、故郷を失い、元の生活に戻れなくなった人々のことを思うと、この判決は惨い。「国家賠償法上の判断は、被災者救済とは異なる問題」(菅野裁判長)は確かですが、これでは国は災害の予防に万全を期さなくてもいいということにならないか、再び原発事故が起こるのではないかと心配になります。被害に遭うのは国民です。司法は事が起こる前に国民を守れと国には言えないということなのでしょうか。
 2006(平成18)年12月、大地震や大津波の際の原子炉の安全性を問われた第一次安倍政権は、「安全の確保に万全を期している」とする答弁書を出しています。これも、森友の事件で「関わっていたら議員も総理もやめる」発言の辻褄合わせのために公文書を捏造したのと同様、最高裁が政権擁護のために忖度を働かせた結果ではないのか。
 ウィシュマさんの件もそうですが、近代国家として制度設計されたはずのわが国の近年の機能不全は目に余ります。国会・政府・裁判所、これにメディアも含め、権力分立・相互抑制論がこれほど空しくなるとは……。権力同士の相互抑制や監視ではなく、束になって国民の抑制と監視に精を出すのですから、まったく堕ちたものだと思います。
東日本大震災:原発避難者訴訟 裁判官個別意見 要旨 | 毎日新聞





↓ よろしければクリックしていただけると大変励みになります。


社会・経済ランキング
にほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
にほんブログ村