ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

維新の学歴詐称問題

 すでにいろいろな方が言及されていて、今さらという感じもありますが、日本維新の会所属の衆院議員が、実際にはそうでないのに大学の非常勤講師を称していたという学歴詐称問題について、5月11日の松井一郎代表のコメントは、かなり常識を外れているように思います。松井代表も、その2日前は、経歴詐称があれば「いっさい擁護しない」「辞めてもらう」と言っていたのですから、この「変わり身」には何かあるのかも知れませんが、講師として報酬をもらっていれば非常勤講師になるとしたら、たとえば、政党が研修会を開いて幾人か講師を招いたら、その人たちはみんなその政党の(非常勤)職員だということになってしまいます(しかも、所属講師を名乗っても名乗らなくても自由?)。維新の会に呼ばれて講演をして、謝礼をもらったら維新の会所属の講師。自民党に招かれて講演をしたら自民党の非常勤職員。これは、政党だけでなく、他の団体や組織でもすべてそういうことになるのかということだと思います。
 小生は、学校に勤めていた頃、外部講師にあたりをつける係をしていて、環境団体の代表者や、税理士、弁護士、気象庁職員、等々、多くの人に臨時の講師をお願いし、謝礼(薄謝!)を渡してきましたが、この方々が、知らないところで学校の非常勤講師を名乗っていたら、それはびっくりします。今回、勝手に所属の非常勤講師を名乗られた大学側もさぞや困惑されていることでしょう(いや、もしかしたら、人によってはこれを「逆用」したい大学があるかもしれませんが)。

松井一郎氏、所属議員の「経歴詐称」問題に「1回でも報酬を得たのなら非常勤講師」…「身内に甘い」「非常識講師」と非難の嵐 | Smart FLASH/スマフラ[光文社週刊誌]

【独自】維新・岬議員に新たな経歴詐称の疑い 大学側「委嘱状は出ていません」 河村たかし市長「デタラメだ」(1/3)〈dot.〉 | AERA dot. (アエラドット)

 学歴詐称は法律違反ですから、それはそれで厳しく対処し、相応の責任をとってもらわないと困ります。しかし、それはともかく、どうして、政治家に限らず、こうも大学の先生を名乗りたがるのか気になります。

 確かに、肩書きとして著名な大学の教授だと言われると、世間的には「ああ、すごい方なんだな」と思ってしまいます。これは一種の「魔法」です。私空間や距離の近い間柄で見えるはずの当人の素顔や実力の程を飛び越えて、「大学教授」という肩書きが提供する手堅い人物像に、我々は(一瞬)そうなんだあと思う。続いて、この方が親しみやすい人かどうか、話がおもしろい人かどうかの「判定」をする。…でも、多くの人にとって、それ以上の「判定」は他人任せで、世間(多くはメディア)の「評判」に委ねるケースがほとんどです。学識レベルの話のよし悪しは専門家でなければ「判定」できません。だから、学歴(所属)は、そういうのを確かめる「労力」を省いたところに成立する合意(了解)事項のようなものかも知れません。
 「箔付」というのはうまい比喩だと思いますが、確かに大学の名や教授や准教授といったポストは「箔」にはなるかもしれません。しかし、箔は所詮「箔」であり、「本体」が問われなければなりません。もし、金箔自体が金ではなかったり、実際にはメッキさえもしていないということなら、世の「合意」を揺るがす不埒行為で、断じて許してはなりません。それはまずメディアにきちんと報道してもらいたいし、特殊な突発事項のような扱いにすると、事態はもっと悪質になっていくでしょう。

 しかし、最近少し気になっていることもあります。ジャーナリストの中に大学教員の肩書きを名乗る人が増えている気がします(こっちは詐称ではありませんが)。大学にジャーナリズムを研究するところがあってもおかしくはありませんし、後進にノウハウを伝えていくのは大事な仕事です。しかし、彼らは「現場」を伝える(伝えてきた)人であって、研究者上がりではありません。テレビ出演に多忙な某氏のように、大学の客員教授でも、実際には授業をしていないという噂の方もいます。大学からすれば、コメンテーターがテレビに出るたびに、字幕で自分の大学名を出してもらえるのですから、CM料だと考えれば安いものなのかも知れません(金額はわかりませんが)。しかし、これではジャーナリストとしての舌鋒はどんどん鈍っていくでしょう。
 メディアも産学複合の勢いに飲み込まれ、権力分立・相互抑制の機能を果たせず、その気概を毒されていくのか――これも今さらの話ではありますが、それにしても、維新のこの学歴詐称問題を松井代表の非常識な言い訳で流されてしまうようでは、この国の社会やメディアはますますもって危ういと思わざるをえません。

<追記>
フランスの作家ポール・ヴァレリー(1871-1945)が「知性について」という小論でこう書いています。

 この問題(階級としての知性)について……大昔から、……一つの単純かつ実践的で、乱暴ですらある解決策が与えられてきた。
 それは知性を学歴で判断するというものである。古臭い様相を温存して、変化に対して腰が重い国ほど、学校の成績による評価が、絶対的とまではいかないまでも、重視されている。
 その場合に、「階級としての知性」とは、学歴のある人たちの階級ということになる。学歴はその物的証拠となる卒業証書によって示される。高学歴者、学者、博士、学士などが知識人階級の構成員であり、彼らがそのように呼ばれることには何の問題もない(なぜなら物的証拠があるのだから)し、数を数えることも容易である。このやり方は知識の保存や伝達には極めて優れているが、知識の増大には、悪いとまではいえなくとも、あまり貢献しない。物的証拠のほうがそれによって証明されるものより寿命が長く、知識人階級のメンバーとして認定された人物が、その情熱・好奇心・精神的バイタリティーを失ってしまった後まで証明書がついてまわるということもある。
 このシステムの不都合な点として、人間を出発点の姿に固定してしまう欠点があることを指摘しておかなければならない。アメリカでは、何歳になっても、頭脳労働から肉体労働へ、あるいはその逆に肉体労働から頭脳労働へ、職業を変えることができるということである。
……
(恒川邦夫訳『精神の危機』、岩波文庫、108-109頁)

 学歴詐称は停滞社会の象徴かもしれません。



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