ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

街の「排除アート」

 ある学校の正門は石畳と赤レンガづくりで味わいがあった。春に桜が咲けば映画のワンシーンにでもなりそうな趣だった。ところが、その石畳の上にニョキニョキと数個の「オブジェ」が現れた。見るたびに違和感を覚えたので、事情通に聞いたら、朝晩の車の駐停車を避けるためだということだった。雨が降ると、保護者による送迎の車が並んで歩行者が危ないのだという。なるほど、と思いつつ、でも、なぜ急に?と釈然としなかった(車の送迎なら前からあるはず)。同時に、それなら、何かもっといい手がなかったのだろうかとも思った。どこにでもあるような風景ではない。せっかくの空間を「排除」の力学だけで構成するのは非常に惜しい気がした。そのうちに「オブジェ」はなくなり、金属製の柵に代わった。今はどうなっているのだろうか。

 「排除アート」という語は、耳にしたことはあったが、あまりよく考えずにきた。公園のベンチなどが「間仕切り」されて、横になれないように「加工」されているのを見て、何となく嫌な感じはもっていたが、そうした「加工」が街の「アート(デザイン)」に施されていることが見てとれると、確かにそこに「底意」があるような気がしてくる。

 2020年12月20日付「美術手帖」に建築史家・五十嵐太郎の文章がある。なるほど、と思った。一部引用する。

排除アートと過防備都市の誕生。不寛容をめぐるアートとデザイン|美術手帖

 近年、排除アートが増えているというニュースが散見される。路上、あるいは公共空間において、特定の機能を持たない、作品らしきものが、その場所を占拠することによって、ホームレスが滞在できないようにするものだ。もっとも、こうした現象は最近始まったわけではない。16年前、すでに筆者は『過防備都市』(中公新書ラクレ、2004)を上梓した際、都市のフィールドワークを通じて、排除アートというべき物体が登場していることを確認した。有名な作品(?)としては、1996年に新宿西口の地下街でホームレスを排除した後に設置された先端を斜めにカットした円筒状のオブジェ群や、京王井の頭線渋谷駅の改札前において小さな突起物が散りばめられた台状のオブジェなどが挙げられるだろう。…
 何も考えなければ、歩行者の目を楽しませるアートに見えるかもしれない。ときには動物を型取り、愛らしい相貌をもつケースさえあるから厄介で、ほのぼのとしたニュースとして紹介されることもある。しかし、その意図に気づくと、都市は悪意に満ちている。排除される側の視点から観察したとき、われわれを囲む公共空間はまるで違う姿をむきだしにするはずだ。私見によれば、1990年代後半から、他者への不寛容とセキュリティ意識の増大に伴い、監視カメラが普及するのと平行しながら、こうした排除アートは出現した。ハイテク監視とローテクで物理的な装置である。21世紀の初頭、路上に増えだしたときはニュースにとりあげられたが、いまや監視カメラが遍在するのは、当たり前の風景になった。…
 ベンチの真ん中に不自然な間仕切りをつけた排除系ベンチが目立つようになったのも、このころだった。言うまでもなく、ベンチは座るためにデザインされたプロダクトである。だが、通常は細長いことによって、その上で寝そべることも可能だ。これは本来、意図されていなかった機能かもしれないが、ホームレスにとっては地面の上で寝ないですむ台として活用できる。そこで座るという役割だけを残して、寝そべることを不可能にしたのが、間仕切り付きのベンチなのだ。当時、ベンチをよく観察すると、間仕切りは明らかに後から付加されたものが多く、行政や管理者の公共空間に対する考え方の変化が可視化されていた。すなわち、誰もが自由に使えるはずの公共空間が、特定の層に対しては厳しい態度で臨み、排除をいとわないものに変容している。おそらく、通常の生活をしている人は、間仕切りがついたことを深く考えなければ、その意図は意識されないだろう。言葉で「~禁止」と、はっきり書いていないからだ。しかし、排除される側にとって、そのメッセージは明快である。…

<中略>
 排除アートは、言葉によって禁止を命令しないが、なんとなく無意識のうちに行動が制限される、いわゆる環境型の権力である。現在、SDGsバリアフリーの目標が高らかにうたわれているが、実際に都市で進行しているのは、真逆の事態ではないか。ホームレスが使いにくいベンチは、実は一般人にとっても座りにくいベンチでもある。そして排除アートは、われわれが使えるはずだった場所を奪う。本来、広場や公園などの公共空間は、有料で入場するテーマパークと違い、未定義の部分があり、様々な可能性に開かれている。それをあらかじめつぶすのが、排除アートなのだ。いまや騒ぐ子供がうるさいということで、公園さえ迷惑施設とされているが、下手をすれば、将来、遊ぶ機能を失ったオブジェで埋めつくされるのかもしれない。アートだけではない。愛知万博の直前、公園のホームレスが強制的に排除された後、同じ場所には花が植えられ、緑を大切にという看板がかかげられていたが、どう考えても人には厳しい処置だった。他者を排除していくと、誰にもやさしくない都市になる。
 最後に岡本太郎の《坐ることを拒否する椅子》(1963)をとりあげよう。彼は巨大な壁画や屋外彫刻のように、公共空間に設置され、誰も所有しないアートを推進したが、これは題名通り、座面が丸かったり、ハート型だったり、顔がついているなど、座りにくい陶製の椅子である。もちろん、これは他者の排除を狙ったわけではない。生ぬるく快適に生きると人間が飼いならされてダメになるから、山の中の切り株のような椅子をつくり、大衆社会に送り込んだものだ。いわば反語的なメッセージである。座るな、ではなく、それでも果敢に座ってみろ、と訴えるものだ。一方、彼は、弱者である病人や高齢者は座りやすい椅子を使うべきだと述べたという。当然、岡本の時代に排除アートは存在しなかった。「坐ることを拒否する椅子」は、モダニズムの機能主義に対する批判でもある。一方で排除アートは「~させない」という機能を担わされた造形だ。まずはわれわれが街に出かけ、他者の視点をもって、知らないうちに増えている排除アートを発見・体験し、都市の不寛容を知ることから、意識を変えていく必要がある。


7月12日付の同氏へのインタビュー記事も参照されたい。
巧妙化する「排除アート」 誰にもやさしくない都市が牙をむく時



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