ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

「後の祭り」 茄子と五輪 

 今朝、台風の強風が2日続いたせいで茄子が根元から折れてしまっていた。よい茄子株だっただけに残念で悔しい。隣に一本残った茄子は何とかもちこたえてくれている。葉に病気が出て、一時は枯れそうになり、背丈が伸びなかった分、こちらは風をしのげたのだろうか。よく生育して背丈が伸びた方が、それゆえに?倒れるとは…。「人生万事塞翁が馬」というか(人ではなくて茄子か!)「禍転じて福となす」というか…。

 さて、8日に閉幕した「パンデミック五輪」は我々にいろいろな側面を見せた。これは、成功・失敗という端的(短絡的)な評価では十分に語り得ない内実をもっていると思う。半年後には北京で冬季オリンピックが予定されているが、東京と同様の流れで開催しようとすれば、同じ問題が再来するかもしれない(パラリンピックはどうするのか)。

 しかし、「パンデミック」のせいにして納得してしまうところには危うさもある。経済思想史家の斎藤幸平氏は「東京五輪失敗の根本原因はコロナではない」、「問題の本質は、資本主義がスポーツを金儲けの道具にしたことだ」と書いている。AERA dot. 8月8日付の記事より。

東京五輪失敗の根本原因はコロナではない 経済思想家・斎藤幸平 (1/4) 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)

…巨額の血税を注いで開催される五輪のようなメガイベントの本質を、米国の政治学者ジュールズ・ボイコフ氏は「祝賀資本主義」と呼び、批判している。人々がお祭り騒ぎで浮かれているスキを狙って、政府や開催都市の大型支出によって潤う企業が利権をむさぼり、その大きなツケを国民に背負わせるのが、「祝賀資本主義」である。
 東京五輪では、開幕直後にメダルラッシュのお祭り騒ぎがあったものの、感染爆発というツケがすぐに露見し、自宅療養で人々は見殺しにされようとしている。さらに、4兆円ともいわれる五輪の総費用やコロナ禍の長期化による経済の冷え込みが、これから国民を襲うことになる。喜んだのは、(国際オリンピック委員会会長の)バッハ氏や(パソナグループ会長の)竹中平蔵氏をはじめとする一部の特権層だけ。これが「祝賀資本主義」の残酷さである。

 また、過去の五輪でも繰り返されてきたように、この東京でも五輪を口実に、住居の立ち退きを強いられた人々がいる。国立競技場の隣にあった都営霞ケ丘アパートは取り壊しの憂き目にあい、高齢の住民たちはばらばらのアパートに転居させられた。開会式直前に話を聞いた元住民の男性は「弱い人間だから、(仕方ないと)自分に言い聞かせている」と言っていた。自分は国家イベントの前では何も聞き入れられない、負けた存在だと言わせる暴力性。このように五輪が人間の尊厳を踏みにじっている。近くの明治公園で行われたホームレス排除もまったく同じ構造である。
 国立競技場のある神宮外苑地区は、かつて建物の高さ制限が厳しく課され、市民のための空と緑を多く残した空間だった。しかし、五輪を契機に激変していく。競技場建て替えを口実に、高さ制限は80メートルにまで緩和され、巨大なタワーマンションの建築を許した。別の広場をつぶした跡地には日本オリンピック委員会JOC)と日本スポーツ協会の新築ビルがそびえたっている。今後も、大きなビルの建設ラッシュが続く予定だ。
 高層ビルに邪魔されない景観や自由にくつろぐことのできる公園は人々のための公共財、<コモン>である。「住む」という権利を多くの人に保障する公営住宅も<コモン>にほかならない。五輪を口実に、弱者を痛めつけ、公園や公営住宅、景観などの公共財<コモン>を破壊しながら、一部の企業や政治家の利権のために都市開発を推し進める。五輪のための開発ではなく、開発のための五輪。その暴力性を隠そうとするのが、祝賀資本主義の本質である。

 こうした五輪の暴力性は、スポーツがビジネス化し、資本主義の道具になるなかで、勝利至上主義が蔓延(まんえん)していることともつながっている。たとえば、コロナに感染したサッカー南アフリカ代表について、自分たちには「得でしかない」と日本人選手が発言した事件は、勝利至上主義の典型だ。こうした発想はスポーツのフェアの精神とは相容(い)れないが、勝てば何をしてもいいという資本主義の競争型社会と相性がいい。
 勝ちだけが優先されていけば、弱い立場の人々は必然的に「劣った」存在として扱われるようになっていく。その意味で、森喜朗氏の女性蔑視発言や小山田圭吾氏のいじめ加害も、五輪にはびこる能力至上主義と強い親和性がある。五輪に感動して、その勝利至上主義を肯定的なものとして社会が受けいれてしまえば、私たちはこれからも同じような差別を繰り返してしまうに違いない。

 事実、五輪は「参加することに意義がある」と多様性を理念にしているが、昨今はやりの、金儲けを隠す見せかけの環境保全「グリーンウォッシュ」にならえば、実際の五輪は綺麗事(きれいごと)をなぞるだけの「スポーツウォッシュ」に成り下がっている。アスリートの華やかな活躍も、資本主義の暴力性を隠蔽(いんぺい)するための道具になってしまっているからである。
 そして、観客も選手もうすうすその暴力性に気づきながらも、五輪に「感動」し、自国の活躍に酔いしれようとした。環境問題において「SDGsが大衆のアヘン」であるように、「スポーツもアヘン」になっているのではないか。
 SDGsやスポーツが目指す国際協力、公正や持続可能性を真に求めるなら、ひたすら成長を求め続けたり、競争を煽(あお)ったりする社会のあり方を抜本的に変え、資本主義が持つ暴力性を排除していく方向に転換しなければならないはずだ。

 つまり、「新型コロナが悪かった。開催のタイミングが悪かった。森氏や小山田氏のような人選が悪かった」という認識で止まってしまうのでは、不十分である。それだと結局、五輪そのものは悪くない。今の私たちの価値観や暮らし方は悪くない。資本主義は悪くないという話に帰着してしまう。
 それほど深く、勝利至上主義や能力至上主義は私たちの日常に溶け込んでいる。相手を打ち負かす姿に感動した、と私たちが思ってしまうのは、他の人よりお金持ちになりたいという願望や、ライバル会社を打ち倒してもっと成り上がるんだといった、資本主義のベースにある価値観や発想と非常に親和性が強いからだという事実に目を向けるべきだろう。
 けれども、このままさらなる競争を煽るだけでは、トップレベルの選手たちでさえも消費されていく。大坂なおみ選手のうつ病などは象徴的である。そのようなスポーツの競争主義・消費主義に対して、大坂選手は全仏オープンの記者会見をキャンセルし、米体操女子のシモーン・バイルス選手は心の健康を優先して、個人総合を棄権した。彼女たちの勇気ある行動に称賛の声が集まっているのは、スポーツのあり方の変化を皆が求めていることの表れであり、ここには希望がある。

<以下略>

 「東京五輪によって取り返しのつかないほどの授業料を日本人は支払うことになる」と最後に斎藤氏は書いている。「祭りの後」が具体的にどういう光景になるのか、多くの人には見えない(小生も同じだ)。

 そう考えると、冒頭の茄子の姿が重なる。強風のせいで折れたと思っているが、隣の茄子はもちろん、近くのオクラはまっすぐ立っていたし、トマトも大丈夫だった。たくさん花が咲き、実をつけそうだと、枝が長く重くなっているのに整枝作業が不十分で、支柱もなおざりだった。「儲け」に目がくらんで、必要なメンテナンスを怠った結果と考えられなくもない。
 これも「後の祭り」だが、「自然災害」ではなく、「人災」ととらえれば、実際に避けられる「自然災害」はあると思う。少なくとも、先を読んで被害の程度を幾分か抑えることはできるだろう。東京五輪後のこの国も同じだったのではないか。



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