ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

政府用語 考

 「寄り添う」――近くで人を支える、物心両面で。「患者に寄り添う」「困っている人に寄り添う」…など、本来は「詩的」で、優しい言葉だと思う。
 しかし、同じ人が同じような場面で二度も三度も口にするとだんだん優しさが剥がれていく。使う人が増えればますます陳腐化する。そうやって使い回されて劣化していった言葉や表現は他にも多いだろう。
 政府も「国民に寄り添う」「沖縄に寄り添う」…などと頻繁にこの言葉を使う。小泉政権民主党政権時代にはあまり耳にした記憶がないので、2000年代までは「政府用語」ではなかったと思う。とすれば、ここ10年くらいのことになるが、いつ、何をきかっけに政府がこの言葉を使い始めたのか、調べてみたが、よくわからない。
 しかし、ともかくも、「政府用語」として今や「定番」となったこの「寄り添う」。使い回しし過ぎて劣化・陳腐化したにとどまらず、内実が伴わない、いや、むしろ正反対のことをするときの「呪文」と化したと言ってもよい。「沖縄に寄り添う」と言いながら、辺野古基地反対の県民意思を無視して、海に土砂(しかも沖縄戦で亡くなった方の人骨を含む)を投入するなど、冒涜である。

 「スピード感」――〇〇感というのは他にもあるが、妙な言葉ではある。前首相が頻出させていたこの言葉、「スピード感をもって助成金を届けたい」「スピード感を持って規制改革を進めたい」など、「スピードをもって」ではなく「スピード感をもって」というのは「スピードを実感できるように」という意味なのだろうか。それは裏を返せば「(実際は)スピードはないけれど…」と言っているようにも聞こえる。
 もし、政府の施策に「スピード」など何もないではないかと批判されたら、「スピード」とは言ってない「スピード感」と言ったのだという言い訳を折り込んでいるかのようだ。あるいは、そもそも「スピード感」が主観的なものだとすれば、政府としては「スピード感」をもってやっているのに、官庁や自治体のどこかにやる気がない連中がいて「目詰まり」を起こしているため「スピード」が落ちて国民には実感できないのだ…云々と、これまた言い訳の余地を残しているかもしれない。

 「丁寧な説明」――これも真逆の「呪文」に近い。しかも、文脈次第では、こっちは「丁寧」に説明する(つもりだ)が、そっちに能力がないから理解できなくてもしょうがないという意味にもなりかねない。最近ではこれがさらに「進化?」して、(どうせ理解できないんだから)説明してもしょうがないということなのか、「無言」「答えず」「無視」……というのが横行し始めた。河合夫妻しかり、菅原一秀しかり。さながらみんなでやっちゃえば、国民なんぞ諦めて何も言わなくなると思っているかのようだ(実際そういう傾向は否定できない)。

 スガ政権には、この「無言」「答えず」「無視」の横行に責任がある。政権は、出だしから日本学術会議の会員任命拒否問題でつまづいたが、今からふりかえってみると、この問題処理が政権の性格を端的に示していた。いや、「処理」とも言えない。説明もせずに放置しているのだから。

 政治学者の宇野重規さんは任命拒否をされた当事者の一人だが、インタヴューに次のように答えている。
 朝日新聞6月18日付記事より一部引用する。

諦めの感覚、それが最大の敵 脅かされる民主主義の理念:朝日新聞デジタル

 ――昨年10月、日本学術会議の会員に推薦されたのに菅義偉首相から任命を拒否されました。当時発表したコメントが気になっています。
 「コメント前半で、会員への推薦については感謝しているが、任命されなかったことについては特に申し上げることはないと述べました。考えは今も変わりません。その上で、後半では自由主義思想家ミルの言論の自由論を引き、私は日本の民主主義の可能性を信じる、と続けました」

 ――当時、憲法が定める学問の自由、または日本学術会議法の問題として批判されました。民主主義とつながりますか。
 「政権が判断の理由を一切説明しなかったことが問題だと考えました。各人が自分の判断や意見の理由を説明するのは、民主主義が機能するための基本的な条件だからです。私個人の任命拒否が妥当かどうかとは別問題です」
 「なぜそう考えるか。どんな判断・意見であっても、まずはその理由が示されることで、議論が始まります。今回の問題であれば、政権が理由を明らかにして初めて、世論の側から疑問や批判も生まれる。政権側もさらに応答していく。こうした意見の応酬こそが、民主主義の基盤なのです」
 「民主主義は短期的には誤った結論を導き出すこともあります。ただ、多様な意見が示され続ける社会であれば、振り子のように修正がきく。一方、今回のように『理由の提示』がない状況下では、健全な論争ではなく、臆測と忖度(そんたく)が誘発される」
 「実際に『あれが理由では』『いやいや、これが本当の理由』といった話が出ました。結果的に、自由な意見表明が何となく自粛されていく。学問の自律性や学問の自由は、それ自体が重要であることは言うまでもありませんが、同時にそれは民主主義の問題でもあると言うべきだと考えました。コメントを求められた時、前半で終えてもよかったのですが、後半を言わなければと思った記憶があります」

 この問題を「民主主義の問題」ととらえられるところが宇野さんの学者らしいところと思う。確かに、俺が決めたことにつべこべ言うな、というのは民主主義ではない。しかし、そもそも、なぜそう判断するのか、理由を言わずに黙っている、というのは民主主義という問題以前に、普通の人間社会では通らないことだろう。こんなことを当たり前のようにされたら、人に対する信頼は失われる。自分の言いたいことだけ言って、人の話かけには一切答えなかったら、社会(社交)にならない。関係ないが、サミットに行ったスガが首脳同士の話の輪に入っていけないのは、英語ができないという問題だけではないと思う。

 なお、学術会議問題をめぐっては、14万筆を超える署名や1,000を超える学会から抗議声明が上がったが、結局何も変わっていないという評価に関して、歴史家の加藤陽子(会員任命されなかった一人)の以下の論考は興味深かったので、補記する。
加藤陽子の近代史の扉:学術会議問題の政治過程 世論が政府の姿勢「変えた」 | 毎日新聞



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