ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

IOCの「名義貸し」ビジネス

 家の周りの生け垣を剪定していたら、娘さん?と一緒に手押し車で散歩(歩行訓練?)していた女性から「きれいになりますね」と声をかけられた。どこの人だろうか? 近所の人ではないような…。
 去年は向かいの旦那さんに「〇〇さん(小生)が剪定すると、こっちも剪定しないといけなくなるじゃんよ」と、やんわりとお叱りを受けてしまった。確かに7月の夏祭りの前にやるのが習わしだったから、6月中旬はちょっとフライング気味なのだが、晴れているあいだにやってしまおうとすると、だんだんと前倒しになってしまう。ちなみに、夏祭りは今年も中止だけれど…。

 「中止」と言えば、隅田川の花火大会も2年続きで中止と決まった。各地のお祭りもだいたいこの傾向だ。このコロナ禍では、どこも開催に踏み切れないようだが、それもやむを得ないと思う。花火は上げるが人が来てはダメです、山車は出るが人が出るのはダメですでは、お祭りをする意味がない。
 しかし、オリンピックは、鼻息も荒く、やる。しかも観客(日本の人)入りで….。外国の人は見に来てはいけないが、日本の人はOK。外国の選手の多くは滞在して事前にコンディションづくりができないが、多くの日本の選手はできる。何やら公平性に疑いが生じる。これは国民体育大会に外国選手を招待した拡大バージョンなのか…。これで日本の選手がメダルをとったと騒ぎ立てられても、笑いがひきつる人が多いのでは…。

東京五輪は「終わりの始まり」」という記事を見た。もはや今までのようにオリンピックを眺めることができないという人は確実に増えている。しかも、祭りの後の惨状を目の当たりにすれば、ますます心が離れるだろう。

 6月18日付毎日新聞の同記事から部分引用する。

東京五輪は「終わりの始まり」 商業化、肥大化、離れる民意 | 毎日新聞

「五輪は世界を映す鏡」といわれる。世界各国・地域から集まったアスリートが人種や性別、性的指向、宗教、政治信条などあらゆる違いを受け入れ、認め合い、競技を通じて交流を深める。平和の祭典と呼ばれるゆえんだ。しかし、パンデミック感染症の世界的大流行)で格差が広がる中、国際オリンピック委員会IOC)は資本の論理を優先して五輪開催へ突き進む。その姿こそ世界の現実ではないかと思えてくる。

 米パシフィック大のジュールズ・ボイコフ教授(政治学)は近著「オリンピック 反対する側の論理」で、「五輪は清算の時を迎えた。東京大会の延期は、五輪が現在のような形で存在すべきかどうかを見極める空間を生み出した」と指摘する。近代五輪が始まった1896年のアテネ五輪から125年。巨大化した五輪は「終わりの始まり」を迎えつつある。

 IOCトーマス・バッハ会長は10日の理事会後の記者会見で、「五輪は完全に実施段階に入った」と述べた。表現こそ穏やかだが、緊急事態宣言下でも開催すると断言したジョン・コーツ副会長、アルマゲドン(世界最終戦争)でもない限り予定通り進めると英紙のインタビューに答えた最古参のディック・パウンド委員と考え方は同じだ。

 ワクチンの普及で新型コロナウイルスの新規感染者数は減少傾向となったが、世界では毎日、1万人超が亡くなっている。感染への不安は根強く、祝祭とはほど遠い。にもかかわらず、IOCが立ち止まろうとしないのは、五輪が財政面でも運営面でも肥大化し過ぎたからだ。東京オリンピックは1万人を超えるアスリートが参加し、史上最多の33競技339種目を行う。

 IOCは巨額の放映権料とスポンサー収入に支えられている。放映権料は総収入の7割以上を占めており、米放送大手NBCユニバーサルとは、2014年ソチ冬季五輪から32年夏季五輪までの10大会で総額約120億3000万ドル(約1兆3000億円)の巨額契約を結んでいる。10億人が視聴するという開会式は大会を重ねるにつれて豪華になり、競技も都市型(アーバン)と呼ばれるダイナミックで若者に人気のあるものが次々と採用されている。

 だが、五輪を下支えしているのは民間資本ではない。国や開催都市などの公的組織であり、時にはボランティアとして参加する開催国の人々だ。IOCは主催者でありながら、国や自治体にインフラ整備やテロ対策など関連経費も含めて開催の負担やリスクを背負わせる一方、自らは特権的な立場を享受してきた。

 04年アテネ五輪は、その典型だ。開催に合わせて空港や地下鉄などのインフラが整備されたものの、ギリシャは大会後に巨額の財政赤字を抱えて経済危機に陥った。しかし、IOCはその後も開催地を変えながら五輪という「名義貸し」のビジネスを続ける。

 財政面での担保を得るためにも、五輪の開催には政治の後押しが欠かせない。
<以下略>


政治学者の白井聡さんも著書でこう書いている。

新自由主義の本質はどこにあるのか。それは「世界で一番企業が活躍しやすい国」(安倍政権の標語)という言葉に表れている。企業とは資本であり、資本のやりたい放題ができる空間をつくり出すことである。そうした空間創出の主体は、資本自身よりもむしろ国家が担うことになる。新自由主義は、資本自身の自律的な活動を核とするのではなく、政治権力(とりわけ暴力)を媒介としてはじめて機能しうるとの指摘は、ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』をはじめとしてすでに数多くなされてきた。
(白井『主権者のいない国』、講談社、2021年3月、85頁)

 IOCのバッハ会長を「ぼったくり男爵」と称したワシントン・ポストが言うように、IOCを企業=資本と見れば、「地方行脚で小麦を食べ尽くす王族のように開催国を食い物にする悪い癖がある」のは確かだ。

 しかし、「終わりの始まり」を見越すことよりも、目の前の危機を避けることがさしあたって最優先されるべきだ。毎日の定例報道で慣らされてしまったところがあるとはいえ、毎日毎日コロナで死人が出ているという厳然たる事実を忘れてはいけないと思う。




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