日本学術会議の任命拒否問題について、歴史学者の古川隆久氏が朝日新聞のインタヴューに答えている。古川氏は、今回の任命拒否に対し、その撤回を求めるネット署名を呼びかけた方。ここで氏が例示した戦前の「滝川事件」や「帝大騒動」と今回の問題の類比もさることながら、「国のため」は「ときの政権のため」とは意味がちがうという指摘は重要だと感じた。
以下、朝日新聞デジタル11月19日付記事より部分引用する。(聞き手:桜井泉記者)
人事で学問介入、軍国主義下でも 歴史家が見た任命拒否:朝日新聞デジタル
<前略>
――社会における学者の役割とはどういうものだと考えますか。
「私がいつも学生に教えるのは、『物事を疑ってかかれ』ということです。歴史学ならば、史料をうのみにしない。どういう背景で文書が書かれ、証言がなされたのか。そうした史料批判が、歴史学では大切です。当然、現実の政治や社会についても同じです。うのみにせず、多面的に考える。それこそ、学者がすべきことです」
――では学術会議の役割とは。
「政府が政策を決める際、専門家を集めた審議会をつくり、答申を得るというやり方がよく行われています。委員は往々にして、政府の方針に強く反対しない人たちが選ばれ、異論はあまり出ません。しかし学術会議は、政府から独立して選ばれた、広範囲にわたる多様な専門家集団です。まさに俯瞰(ふかん)的、総合的な観点から政府や社会に提言していく。政府お手盛りの審議会にはできない、セカンドオピニオンを示すのです。政府の意を忖度(そんたく)するようになってしまえば、存在意義がありません。その結果、政府が間違いを犯せば、損をするのはわれわれです」
――加藤勝信官房長官は、任命拒否について「直ちに学問の自由の侵害にはつながらない」と述べました。「学術会議の会員になれなくても、研究は自由にできる」という意見もあります。
「全く違います。学術会議の会員を選ぶ基準は、優れた研究と業績です。首相が任命を拒否したということは、これを否定したということになります。それが通れば、国立大学の人事や予算、税金で賄われる科学研究費(科研費)助成事業も、時の政権の意向に左右され、研究に必要な立場や資金が、学術的な基準以外で決められることになってしまう。まさに憲法23条が保障する、学問の自由の侵害です。今回の件を黙認することは、こうした事態への第一歩となりかねません」
<中略>
――とはいえ、戦前とは違い、今は民主主義の世の中です。心配しすぎではないですか。
「安倍政権の頃から、選挙で勝ったから何をしてもいいと言わんばかりに、少数派の意見や異論を無視する風潮が高まっているのを感じます。『税金を使うのだから政府の言うことを聞くのは当然だ』という意見はネット上に多く、一部の国会議員も扇動しています。この点で戦前の弾圧と似ていると思えます。『国のために』ということと、『ときの政権のために』というのは同じことではありません。政権に批判的な意見が、長い目で見て世の中を良くすることもあります。これが『国のために』という本来の意味です」
「だからこそ、ネット署名を通じて事の重大性を国民に広く訴えようとしました。みんなが自由なことを言える社会、そして政府が問題を起こせば、それを批判し、やり直すことができる社会。本来、憲法が保障している、そうした仕組みを維持するためにも、私たちは税金を払うべきなのです」
「批判的な意見」、「物事を疑ってかかれ」ということで言えば、興味深い記事(表・グラフ)を見た。
(出所:批判的思考が低い日本の教師に、批判的思考を育む授業はできない | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト )
「批判的思考が低い」と一括りにされるほど「日本の教師」が同質だとは思わないが、批判精神のない教師が生徒の批判的精神を育てるのが難しいのは確かだろう。同じように、批判精神のない国民には批判力のある政治家やメディアを育てることはできない。批判力の礎は、論理と実証、要するに科学的であることのはずだ。今、コロナ感染をめぐり、非論理と非実証(非科学)を押し通そうとする輩を見るにつけ、日本学術会議の任命問題が本質的に人事権云々のレベルを超えていることを痛感する。
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