ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

藤田省三『現代史断章』の冒頭から

 学生の頃「政治学」のレポートか何かを書かなければならなくなり、ゼミの先輩と何を読んだらいいか雑談していたら、「あの(政治学担当の)先生は、丸山真男藤田省三松下圭一が好きなんだよね」と言われて、それがきっかけだったかどうか、藤田省三さんの書いたものを初めて読んだ(というか、手に取った)と思うのだが、最初の一冊が『精神史的考察』というのは、今にして思えばなかなか怖いもの知らずの「冒険」だったと思う。当時これを読んで「共感」的に理解できていたら、もっとちがう人生を歩んでいただろう。

 その後、齢を重ねて、藤田さんの著作にいくつか接し、少しは「言わんとするところ」が理解できるようになったと思いたいが、先週、藤田さんの著作集3『現代史断章』(みすず書房 1997年)を眺めていたら、冒頭に次のようにあった。

 民主主義の現実的形成の歴史も……「民主主義理念そのもの」の展開としてかたちづくられるものではない。それは、……「常に一定の目標に向かって闘う一定の社会的勢力によって担われた一定の運動」としてのみ実現されて来たのである。
 もちろんそのことは民主主義の理念そのものの性質からも説明できる。つまり、その理念が「治者と被治者の一致」の理念である以上、その実現の過程は自律的秩序の統合の過程であると同時に「治者と被治者の不一致」に対する反抗(或は批判)の過程である。従って民主主義の政治理論は統合の理論であると同時に反抗の理論たらねばならない。この相反する両側面の同時存在性が崩れるとき、人は民主主義の「挫折」を感じなければならなくなる。それが統合過程だけになった場合にはそこに「形骸秩序」を感じ、それが反抗過程だけになった場合にはそこに唯単なる「騒擾過程」だけを感ずる。前者は「機構の手続」だけとなり、後者は「目標なき反対」となる。……ところが「統合」の契機と「反抗」(批判)の契機が結合した状況の下にあっては、ひとは民主主義の理念は実現過程をとりうる理念……むしろ今正に実現されんとしていると感ずるのである。

(同書 1-2頁)

 補足までに、藤田さんは民主主義が“運動”であることに力点をおいている。理念がでーんとあって、そこに向かって進んでいくのが必ずしも民主主義というわけではないということだろう。運動の過程で、理念だって修正される。治者と被治者の間にも相互の緊張関係が連続する。動いているのだ。

 ところが、この国の場合、被治者側の「お任せ民主主義」と治者側の「多数決暴力」が長く繰り返された結果、「治者と被治者のあいだ」には埋められない溝がぱっくりと口をあけたままになり、今のコロナ禍でその危機が露わになっている。被治者の中には生活困難と命の危険が迫っている人が刻一刻増え続けているのに、治者側はなかなか有効な手を打てない(打つ気がない)。こうなると治者が被治者に何かを呼びかけても、多くの被治者(国民)の心には届かない。それはそうかもしれない。言う通りにすれば、感染がおさまり生活困難から抜け出せるのであれば、国民も協力するだろうが、言う通りにしていたら命を失いかねないのだ。自分の命を自分で守るしかなかったら、外出や営業の自粛要請になど従えるはずもない。しかし、それではますます感染が拡がってしまう。……。

 すぐに選挙をするなら別だが、さしあたって「出口」の見えるような妙案は思いつかない。ドイツや韓国や、他国の様子を眺めていると、治者と被治者の距離は、この国ほどは乖離していないように見える。それはそうだ。どの国にあっても未曽有の「国難」なのだから、乖離なんかしている場合ではない。
 とすれば、藤田さんが書いているように“「統合」の契機と「反抗」(批判)の契機が結合した状況”を何とか取り戻さないといけないのだなと思う。現状でできることは、これからも「批判」すること。ただし、「目標なき反対」にはならないように。



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