ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

「強制を伴うものではない」

 子どもの頃から人の言うことや書いてあることを真に受ける方だったが、それが妙なトラブルを招くということもあったと回想する。
 小学6年生のとき、学校で演劇鑑賞会のようなものがあった。参加は希望制で、「希望しない」に〇をして参加希望票を提出した。早く学校から帰れていいや、くらいに思っていたところ、不参加は小生を含めた4,5人しかおらず、下校するとき担任の先生からは睨まれるし、あとで親も何か言われたらしいし……。何か疎外された感じをもちながら、埋め立て地の小道を子ども同士でぶつぶつ言いながら帰ったような記憶がある。「だって、希望制だって言ったじゃないか!」
 中学3年のときにも似たようなことがあった。高校受験対策用の5教科の参考書を学校で購入できるというので、母親に社会科だけ欲しいと言って希望票を記入し、お金をもらって購入した。それが4月の話。ところが、ずいぶんたってから母親に担任の先生から連絡があり、参考書の内容に沿った校内模試をやるので、5教科全てそろえてくれないと困るというのだ(その1回目か2回目の校内模試が終わったあとの話)。6月だったか、7月だったか、しぶしぶ残りの4教科分のお金を学校に持っていくと、もう在庫が切れていたらしく、数学と理科の2冊は教師用の答えが赤字で入っているやつを渡された。ちゃんとしたものが届くまで、とりあえず教師用で我慢するという話だったと思うが、結局「ちゃんとしたもの」を渡されることはなかった(親はけっこう怒ってたっけなあ)。職員室に呼ばれて一式を渡されたときの情景を今でもかすかに覚えている。西日がさしていて暑かったような。担任はバツが悪そうにしてたなあ。志望していた高校には入れたものの……。「だって、希望する教科の( )に〇をしてくださいって書いてあったじゃないか!」

 この国で暮らしていると、多かれ少なかれこうした場面を経験し、「何か」を覚えていくものなのかも知れない。小生は経験を重ねてもあまりこの「何か」を学ばない子どもだったようだ。昔これで、今の時代だったら……と思うと、苦笑するしかない。

 今日、自民党は政府と共催で昨年亡くなった中曽根康弘氏の葬儀を行う。自民党が単独でやらずに政府を巻き込むことで、「国葬」の装いにすれば、全国民に弔意を求められる、というところか。もっとも、政府の側も、単独でやると「強制」の意味合いが出てしまうので、共催にしておく方が「逃げ道」もあるし、何かと都合がよいのかも知れない。アベが内閣総理大臣自民党総裁を都合よく使い分けしたのと似ている。やってることは中国や旧ソ連の「党=国体制」と変わらないが、いつまでもその“漸近線”のままでいるような。実に「曖昧な国・日本」らしい。

 さて、この間、政府が全国の国立大学など教育現場に弔旗の掲揚や黙とうで弔意の表明を求めていることが明らかになり、各方面から疑問や批判の声が上がっていた。加藤官房長官が「哀悼の意を表するよう協力を求める旨の趣旨であり、強制を伴うものではありません。文部科学省として教育の中立性をおかすものとも考えていないと承知してます」といくら弁解しても、国旗・国歌法と同じで、「従っておかないと、あとで面倒なことになるのでは」という心理的圧力は十分ある。

 毎日新聞10月14日付記事に声がいくつか紹介されている。

「思想統制」「国民目線とずれ」 中曽根元首相の合同葬巡り教育現場から批判 - 毎日新聞

 大阪大の男性教授は「思想統制のようで、単純に気味が悪い。国葬でもないのに、『国立』と名の付く組織に勤務しているだけで従う義理はない。何か勘違いされているのではないか」と不快感を隠さなかった。菅義偉首相が学術会議から推薦された新会員候補を任命しなかった問題にも触れ、「国から金をもらっているところは全て政府や自民党に従えということか」と疑問を呈した。

 北海道大の50代の男性教授も「政府の対応は明らかにやり過ぎで国民目線からずれている」と批判。「中曽根元総理は日本にとって大きな存在だったかもしれないが、個人がそれぞれ弔意を示せばよい。政治家が指示したとしても、官僚がストップをかけなければならない」と指摘した。

 京都大大学院生の男性(29)は「明らかに大学への政治の介入だ。京大は自民党ではなく、あくまでも国立大であり、弔旗の掲揚はおかしい。大学は政治の要求を断れば予算が減らされることも考えられ、なし崩し的に政権の言うことを聞くような大学に変えられてしまう」と危機感を募らせた。

 京都大職員組合前委員長の駒込武・京大大学院教育学研究科教授は「日本学術会議の問題もそうだが、公務員は政府の見解に従えということだろう。菅内閣は『国家の命令に従え』という体制に国を変えようとしている」と話した。

 琉球大の男性教授は「一種の強制であり、学問の自由や思想信条の自由など世の中の基本を支えている仕組みをつぶすような行為だ。これでは大学が国にそんたくするような風潮がますます強まっていく」と懸念した。

 都道府県教育委員会にも、加藤勝信官房長官の名前が入った同様の通知が参考として送付された。14日に通知を受けた大阪府教委は内部で対応を協議。特定政党への支持や政治的な活動を禁じている教育基本法14条に抵触する恐れがあると判断し、高校などの府立校には送付しないことを決めた。


 弔旗の掲揚方法を示す例が「明治天皇の大喪の儀」というのも、アベスガ政権のイデオロギー色が前面に現れていて、奇異な感じがする。そもそも中曽根氏は天皇だったわけではないし、いくらなんでも大正時代の例をひいてくるのは時代錯誤が過ぎる。16日の共同通信によれば、国立大82校のうち、56校が弔旗や半旗を掲揚し、19校は掲揚しないという。
 上の声の中にもあったが、国家機関は自民党政権のカネで支えられているのではなく(中にはそういう“個人”がいるかもしれないが)、国民から集めた税金によって運営されている。広く国民の声に支えられなければならないから、「政治的中立」が求められるという話だ。国民の中には自民党支持者もいるかもしれないが、共産党支持者もいるし、そういうのにかかわりたくない人もいるわけで、この中のどこかひとつに肩入れしてはダメなのだ。

 中曽根氏の業績については、個人的に国鉄民営化と原発推進策に関して異議があり、氏に特に敬意をもつものではない。14時10分の黙祷指定時刻には、家に居るかもしれないし、買い物をしてるかもしれないし、ほぼ関心なし。しかし、このコロナ禍に敢えて強行する(=実験的)「儀式」を政府がどう進め、どう国民に見せようとしているのか、そこは注視するつもりでいる。



↓ よろしければクリックしていただけると大変励みになります。


社会・経済ランキング
にほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
にほんブログ村