ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

前川喜平さんにきく

 また、デモクラシー・タイムスを見に行った。山岡淳一郎がゆく「ニッポンの崖っぷち」第6回に前川喜平さんが出演していた。この前の内田樹さんと同じことを話していて興味深かった。

 前川さんは周知のとおり2007年から2012年まで文部科学事務次官で、現在は「現代教育行政研究会」の代表をつとめる。寺脇研さん(元文科省大臣官房審議官/京都造形芸術大学教授)とともに映画『子どもたちをよろしく』を企画。これが2月29日から全国公開ということだったが、このコロナ禍で今どうなっているのだろうか。4月5日(日)付の東京新聞には「アベノマスク」に関するコラムも書いている。調べてみると、去年亡くなった中曽根康弘元首相と親戚関係にあったりして「えーっ!」と思ったが、まあ、かえって前川さんのスタンスのとり方に敬意をもつようになった。

 以下メモの抜粋である。内田樹さんの認識と重なる部分については、教科「道徳」の読み物資料を紹介したところが、具体的でわかりやすい(学校現場の良心的抵抗もあるようだ)。関心のある方は、実際の映像をご覧いただきたい。<リンクは貼りません。ごめんなさい。>


 前川喜平さんにきく 「緊急事態宣言下の学校と政治」(前編)

①首相の休校要請について
 休校措置は、国にとって、他の事業とちがって補償がいらない。子どもたちは学びに行くが稼ぎに行くわけではない。先生たちも仕事はなくなるが身分は保障されている。補償のいらない措置として安易に使われたのではないか。学校にクラスターの危険があるかというと、私は決してそうは思わない。2月27日に安倍首相が突然全国一斉休校の要請を発したが、まだ感染者が発見されていない県もあるし、東京だって、小笠原まで休校というのは無理がある。
 補償がいらない措置と言ったが、実は、本当は補償は必要だ。子どもたちには学ぶ権利、教育を受ける権利がある。子どもにとっての一日は大人の1ヶ月くらいの意味がある。子どもたちは一日一日成長していく。それを安易に犠牲にしていいのかという思いを強く持った。やむをえず休校する場合もあるとは思うが、きちんとした根拠を持ってやるべきだ。保育園、幼稚園、小中学校、高校、大学…と学校段階に応じて異なる考え方がなければいけない。子どもの生活圏は狭い。状況に応じた具体的な判断が必要だろう。全国一律に休校というのはありえないこと。何かをやってるというところをアピールしたいだけだと思う。

②「休校明け」への懸念
 長い休校明けのタイミングで夏休みの最終日8月31日に起こる現象と同じことが起こる可能性は十分にある。不登校だけでなく、場合によっては死にたくなるような子も出てくるかもしれない。9月1日は子どもの命が危ない日。それが5月の休校明けに起こる可能性がある。だから、無理して学校に行かなくてもいいというメッセージを出しておくことが必要だと思う。

③学習指導要領の拘束力
 今おそらく各学校の先生や校長が気にしていることは、学習指導要領で求められている授業内容や授業時数を確保できるかということだと思う。文科省はそこは柔軟でよいというメッセージを出すべきだ。授業時数が1時間でも欠けてはならないという強迫観念のようなものが学校現場にはあるが、もっとおおらかでよいと思う。
 本来、学習指導のカリキュラムは学校ごとにつくるもので、学習指導要領はおおざっぱな基準に過ぎない。事細かに国が口を出すべきではない。学習指導要領が一言一句法的拘束力を持つものではないことは過去の裁判(判例)にも示されている。

④安倍政権の教育政策
 言葉が立派すぎて内実がともなっていない。首相は「(児童生徒が)一人一台ずつの情報端末を持つのは“国家意思”だ」と言った。“国家意思”と言うなら補正予算ではなく、毎年度の当初予算でなければおかしい。2009年度の「スクール・ニューディール」と称した電子黒板普及も結局進まなかったが、これも補正予算での対応だった。
 安倍政権の教育政策には非常に危険を感じる。私が事務次官をつとめた4年間、実際には第一次政権の頃からすでに、教育を国家主義的方向へ変えていこうとする志向があった。ひとつのきっかけは2006年の教育基本法の改定で、このとき「愛国心を養え」とか、「規律を重んじる」とか、「道徳心」とか「公共の精神」という言葉が盛り込まれた。世の中に道徳は必要だと思うが、彼らが言う「道徳」は、国がつくって国民に押しつける「道徳」だ。「公共の精神」というのも、自由で独立した人々がつながり合ってつくっていく公共(パブリック)ではなく、お上が独占する「公共」であり、「滅私奉公」というときの「公」である。安倍政権の周りにいる人々は「教育再生」という言葉が好きだ。「再生」というのは、かつては生きていたが今は死んでいるものを生き返らせるという意味だが、それは何か、「教育勅語」のことだ。つまり、究極的に彼らは教育の世界に「教育勅語」を復活させたいと考え、「教育再生」という言葉でそれを実現させようとしている。2006年の教育基本法の改定はその第一段階だった。もともと「教育勅語」は教育基本法ができたことによって失効したものだった。ところが、教育基本法に穴を開けて「教育勅語」が復活する余地をつくった。その穴が空いたことによるひとつの大きな成果が「道徳」の教科化だ。

⑤教科「道徳」について(割愛)
 ※教科書中の読み物:自己抑制・自己犠牲を求める話
 ・「かぼちゃのつる」
 ・「星野君の二塁打」 
 ・“中断読み”の授業実践