内田樹(たつる)さん。「フランス文学者」という紹介もあるが、私の認識ではレヴィナス研究者(哲学者)・評論家。前神戸女学院大学教授。「街場の〇〇」シリーズで知られ、該博で鋭く、楽しい評論をされてきた。私もファンのひとりである。
たまたま見つけたのだが、山崎雅弘さんのTwitterに、先週であろうか、凱風館で収録された内田さんの韓国人向けのインタヴューというのがあったのでのぞいてみた。テーマは「コロナウィルスと日韓関係」ということだが、「関係」というより「相違」といった方が内容に即していると思う。話の概要を以下にメモ書きしてみる。内容について正確でないところや誤解があれば、それは当方の責任で、内田さん、山崎さんには何の責もないことをおことわりしておく。
僕の安倍政権の評価は戦後最低。いつか危機的な状況に遭遇して破綻するのではと思いながらも、その場面は想像できなかったが、今回の感染症対策で国際社会からはっきりと「ノー」を突きつけられた。今回のコロナ・ウィルス感染の問題は国際社会が同時に直面した危機で、これに対して国民国家おのおのが個別の対策を迫られた。これは一斉に問題が配られて解答を迫られる試験と同じで、解答の結果が感染者数やそのピークアウトの時点、死亡者数など、数字としてはっきり示され、各国の防疫対策、医療、保健などのしくみの出来不出来が一望俯瞰となっている。うまくいっているところがあれば、他の国がすぐにそれをまねするし、立ち後れている国はどうしてこんなに遅れているのかと、外国のメディアから非常に厳しい目を向けられる。日本の場合だと、どうしてこんなに検査数が少ないのか、水際作戦と言っていたのに、どうして水際からどんどん水漏れしているのか(大型クルーズ船の感染対策など)といった具合だ。
この問題では、韓国と日本は好対照といえる。日本の場合、「非常事態」ということで権限を官邸に集中させ、正確な情報を基本的に開示しない、その理由は、開示すると国民がパニックになるから、というもの。しかし、開示するとパニックになるからと言いながら、そもそも調べようとしない、だから政府中枢も感染の正確な実態はわからないというのが真実である。一方、韓国の場合、中枢に権限と情報を集中させることと民主的な情報開示という両者のバランスをとり、国民全体の協力を得ようとする。その難しい舵取りの結果、短期間に成果が現れ、新しい感染者数が激減している。日本はこれから爆発的な感染を迎えそうだ。日韓ともにほぼ同時に同じ問題に直面したが、2・3週間の間に大きな差が出てしまった。日本政府の危機管理能力のなさ、国民全体に情報を開示し協力を求めていくことができない体質をまざまざとみせつけたかたちである。
日本政府の考える、情報を開示するとパニックになるというのは、ある意味本当のことだ。その理由は、日本の国民がどんどん幼児化して自己判断能力がなくなっており、利己的で公共のことを配慮した適切な行動をとれなくなっていることと関係している。これはこの間の日本の教育や政治 ―自分の知見をもとにものごとの適否を判断してはいけない、上位者の指示に従いなさい- の所産なのだ。日本ではこのところ組織マネージメントがずっと優先されてきた。上位者に忠誠心を示す人間が重用され、能力は高いが自分の意見をはっきり言う人は、逆らう者として毛嫌いされ、遠ざけられてきた。その結果、自己判断せずに、どんな問題であっても、「どうすればいいんですか?」と人に訊くという幼児的な国民性がつくられてしまった。愚民化、幼児化が政策的に行われてきたのである。
国民を「大人」にし、判断力をつける方法はひとつしかない。それは子どもを育てるときと同じで、「大人あつかい」をすることだ。自己判断力をつけるには、任せることだ。「君が決めていいですよ」と言っておいて自分で決めてしまったら判断力は育たない。「君は考えなくてよい、こっちが『正しく』考えてあげるから」というのでは大人になれないのだ。このように自己決定権を奪い、代わりに上位者が決定し、それに従えばよい、という「教え」により、国民は成熟した市民としての知見をもたなくなり、急激な幼児化が進んでしまった。幼児化している国民に、現在日本では統治機構が機能していませんとアナウンスしたら、どんなパニックが起こるか分からない。でもそれは原因と結果が逆なのであって、そういう国民にしてきたのである。
韓国の市民的成熟度は日本よりも格段に高いと思う。韓国の人々は上の人間が自分たちに代わって何かを判断してくれるとは思ってない。軍事独裁政権の頃からそうだが、上位者が常に正しい判断をするという前提がないから、自分たちで決めていくしかない。自分たちが個々に判断して、どうやって事態に適切に対処するか考える、そういう中で市民意識が培われてきた。韓国のやり方、国民に情報を開示しながら政府と国民が一体となって進める感染症対策を、日本ではどうしてとれないのかというネットの投稿を見かけるが、それは甘いと言わざるをえない。日本ではそれができないような国民がつくられてきたのだ。これほどちがいが顕在化し、可視化された例はないと思う。
政府が無能かどうか、この点に日韓にそれほど大きな差はないと思う。日本政府にも韓国政府にも有能な人、無能な人は含まれているだろう。しかし、市民の成熟度には大きな差ができてしまった。韓国では官民一体となって対処できるが、日本ではできない。日本の一般の人たちは政府のことを信頼していない。政府の方も一般市民を信頼していない。相互不信がある。日本の人々は「政府は嘘ばっかりついている、情報を隠蔽する」と思っている。政府の側も、情報を隠す。事実を明らかにしたらどんなことをされるか分からないと思っている。国民に対する信頼がないわけだ。信頼していれば、経済にしても、財政にしても、年金、医療にしても、こういう事情だから国民のみなさん、ご理解くださいと言える。しかし、全部うまくやってるからお前ら黙ってろ、と。それで、どんどん悪い方向へと進んでいっている。
結果的に国民は公共心をどんどん失っている。公共心は自分の個人的行動が国と国の運命にリンクしているという実感がないと湧いてこない。今の日本人は自分が個人的に何を考えてどう行動しても、それによって国のかたちが変わることはないと思っている。自分の思いや行動と国や政治が全く切り離され、無力感が植え付けられている。国民に無力感を植え付けることに関しては安倍政権はこの7年間で大いに成功した。しかし、無力感をもった国民には公共心がない。当たり前のことだ。日本はそういう悪循環の中にずっといる。
今回のコロナでは感染された人、亡くなった人、大きな痛手を被っている方もたくさんいて、本当に気の毒に思うが、こういう形で日本の市民意識の脆弱性が露呈されたことはひとつの得難い経験であったように思う。