ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

高校国語に文学を

 今年の4月から高校の教科「国語」が模様替えされる。高1の必修科目である「国語総合」は、「現代の国語」と「言語文化」の二つの必修科目に、2・3年の「現代文」は「論理国語」と「文学国語」に分かれる。「論理国語」という新科目は、新しい学習指導要領で「実社会を生きる力を育成する」ために実用的文章を重視することが謳われていることから、いわば文科省の肝いりで設定された科目だ。必修科目である「現代の国語」も実用的文書を重視するということになると、従来おなじみの教材だった小説などの文学作品は行き場を失い、削られてしまう。もちろん、小説を多く扱う「文学国語」と実用的文書の多い「論理国語」の二つとも選択することは可能だが、単位数や他科目との兼ね合いなどから、二者択一となれば、実際上は、多くの高校で「論理国語」は選択されても「文学国語」は選択されないだろうと見られている。つまりは、今後高校の国語の授業で文学(小説)を扱う時間は、従来に比べて大幅に減るのは避けられない見通しだ。

 これには実際に授業を受け持つ国語の教員はもちろんのこと、他の識者からも懸念や批判の声が上がっている。たとえば、10月11日付「デイリー新潮」の記事にはこうある。

文科省の“教科書改悪”に一石を投じた出版社が 学習指導要領に沿わない“小説収録”の教科書を販売(デイリー新潮) - Yahoo!ニュース

論理と文学を分ける矛盾
「論理・実用」と「文学」を安易に分けることが根本的に問題であるのは言うまでもない。「区分け」の傾向は高校2年生以降でも顕著で、「論理国語」「文学国語」「古典探究」「国語表現」から選択することになっている。
「『論理』と『文学』を分けるという発想が非常に強くあることが分かります。しかし、それは本当に対立する概念なのかというとそうではないわけで、ここにも矛盾が生じているのです」紅野謙介日本大学文理学部教授)
 そして、こうした「区分け」により、
「文学作品を読み込む時間が今よりも短くなるのは間違いない」(同)

 東京大学大学院人文社会系研究科・文学部教授の阿部公彦氏は、
「実用的な言葉が使えない生徒が増えているから何とかしなければならない、といわれていますが、実用文を山のように読ませればできるようになるのでしょうか。部分的に取り入れるのは構いませんが、そればかりやらせても意味がない。言語学習は効率を求める世界ではないと思います」
 として、こう語る。
「文学における言葉には、さまざまな働きや効果、面白さなど、我々には計り知れないエネルギーのようなものがある。そうしたことを体験したり、体験を通して知ったり、知ったことを実践するのが非常に重要。こうした言葉の不思議な働き方を体験する入り口に連れて行ってくれるのが国語教育の大事な要素のはずです」

 教育評論家の石井昌浩氏が言う。
「そもそも“分ける”というのが非常に形式的な発想です。そうした形式的な枠組みに縛られるのではなく、むしろ、教材にはもっともっと幅があってもいいのではないかと思います。小説というジャンルの中でも、本当に多様性があります。それを選択するのは生徒たちであって、最初から排除するというのは、学問として成り立つのかと疑ってしまいます」
 さらに、小説を読むことの重要性をこう説く。
「多様な小説を読むことによって、表現力や幅広い考え方が身に付きます。優れた思想形成にも繋がる貴重な機会で、豊かさの象徴のようなものです。また、小説を読む行為を通して、他の人生を生きることも可能になる。中には社会から“はみ出した”ような人生もあるでしょうが、それもそれとして理解する許容力のようなものも、子供たちの成長には必要なのではないでしょうか」

先の紅野氏は、
「実用文や評論文だけでは、一面的な部分しか育たず、本質論がどんどん遠ざかってしまいます」
 と、指摘する。
「何事も本質論で考える思考力を鍛えることが大事で、そこには評論も必要だし、小説も必要だし、言葉について考えるなら詩歌も必要になりうる。本来はいろいろな教材を使いながら組み立てていかなければならないはずです」


 元日付の「AERA dot.」に掲載されている山口謠司・大東文化大学教授のインタヴュー記事にもこうある。

4月に変わる「高校国語」に学者から怒りの声 「人の気持ちがわからない子が育つ“改悪”」〈dot.〉(AERA dot.) - Yahoo!ニュース

――今回の高校国語科教育の改革についてどう思われますか。
 契約書や取扱説明書を読めるように「論理」を重視した結果、「文学」を軽視することになっていて、この流れは明らかにおかしい。「文学は論理的でなく、実社会に役立たない」という改革の背後にある考え方がまったく理解できません。
 「悪貨は良貨を駆逐す」と言いますが、かつて入試で古文・漢文を除く大学が普通になってから、高校の授業で漢文を教える機会が少なくなっていったように、一度傾斜配点にしてしまうと、文学もなしくずしに教えなくなっていくでしょうね。

――実学重視にひた走る教育にはさまざまな批判があります。
 室町~江戸時代で使われた庶民の教科書『庭訓往来(ていきんおうらい)』を知っていますか。年始のあいさつの文例や、農民と町人が契約を交わす際の定型文といった「これさえ覚えていれば生活に困らないよ」という教養の基本をひな型にまとめたものです。
 今回の高校国語の「改悪」は「『庭訓往来』のように定型文を覚えればそれでいいという時代に逆戻りしろ」、と言っているのと同じ。
これをやってしまうと、自分で考えることができなくなってしまいます。明治時代になり、夏目漱石正岡子規といった文学者たちがやろうとしたのは『庭訓往来』的教育からの脱却です。
 自分の目で見たものを自分で考えて、自分で書いた。漱石は新聞の連載小説でご飯を食べていた人で、非常に論理的です。連載1回あたり1000~1200字の中に「文章の山」をつくり、読者に「明日も続きが読みたいな」と思わせる展開になっています。このように文学は、論理を超越する魅力を持っているのです。
 一方、契約書や取扱説明書のような文章には、論理性を超える力はありません。実用的文章ばかりを読んでいるだけでは、人間は受け身になって、発想もどんどん小さくなっていくでしょう。文部科学省は「論理国語」という「庭訓往来」的な教育でつまらない小さい若者をつくっていこうとしているのです。

――文学に触れないことで、ほかにどんな弊害が生まれますか。
「自分の範疇を超えた他者の気持ちがわからない人」に育つに違いありません。
 小学校のころに国語の教科書に載っていた新美南吉の「ごんぎつね」や「手ぶくろを買いに」を思い出してください。その人物の気持ちになって考えよう、と授業で習いましたよね。文学は、感情や情緒にかかわる教育も含んでいるのです。
 また、現代社会では、カタカナ言葉のように、わかる人同士しか通じない言葉が増えていますよね。自分の知っている範囲だけ、自分のお気に入りの人、同じコミュニティーの人としか会話・交渉できない若者が増え、分断社会を助長するでしょうね。
 今回の改革が「感情教育は15、16歳までにきちんとしてある。だから、高校からは論理だけでいい」というなら、怒りは湧きませんよ。でもちがうでしょう。
 これから大学入試で少しでも有利になるように、論理的文章ばかり読ませるような国語教育が中学校、小学校と前倒しで行われないか危惧しています。みんなが同じ定型文を覚えてどうするつもりなのでしょうか。文科省がやっている英語教育や英会話もまったく同じです。定型文を覚えることで、表面的な会話はできるようになるかもしれませんが、人と、本当に心を通じ合わせる言葉を編むことはできなくなるに違いありません。

――文学は論理と対立する概念でないのですね。
 前述した通り、文学は論理を超越します。たとえば、物理学者の寺田寅彦は随筆の名手でもありました。物理の知識だけではなく、その背後にある世界観を文学的に表現しています。彼の「天災は忘れたころにやってくる」という警句は有名ですが、こうした論理を押さえたうえで、読ませる文にしていく表現力などを高校の授業で教えるべきなのです。古典もしかり、近代文学には次の時代につながるものがたくさんありますよ。

――「論理国語」では、ディベートなどのアウトプットに重きをおいています。
 アウトプットのためにはたくさんインプットしないと。中身がなければ何もできません。  
 実学重視の日本とは違って、フランスの大学入学共通資格試験であるバカロレアでは、哲学が必須ですよ。アンリ・ベルクソンなどが出され、口述試験もありますから、高校生から普通にロジカルシンキングや哲学を学びます。論理を重視せよというなら、フランスのような入試に変えればいいのにと思います。
 文科省は「人を耕す=カルティベートする」つもりがないのだと思いますね。国語科では本来、もっと人間の深い「カルチャー」の部分まで耕すべきなのに、「論理的」で「実用的」な文章を重視するというのは、人間の表層部に機械をつかって種をまいているだけです。
 授業の名前を「日本語」でなく「国語」と呼ぶ意味を考えてみてください。決して日本語の文法や知識を教えるだけのものではないはずです。もっと「人間を深くまで耕す教育」であるべきです。

 もし、子どもたちの、あるいは日本人全般の読み取り能力や論理力(?)が落ちているから何とかしたいと本気で考えて教育課程を改めるとしたら、国語に新科目をつくっても、まあ無理だろうと思う。読み取りや論理の学習が、学校の教室で行う年間60時間か120時間の授業で向上すると思える、その神経は官僚ならではと思う(建前だけで本気とも思えない)。これは「国語」だけでなく、教科をまたいだ教育活動として取り組むべきことだし、そもそも学校では日常的に論理性を剥ぎ取った一斉命令式の教育が続いているのに、都合よく子どもたちに論理力をつけられるはずもない。求める従順さと論理が矛盾したらどうするのか。
 身も蓋もないことを言うが、人がいったいいつどこで真に学んでいるかと考えてみると、教室の授業はそのほんの一部であり、実際は「学校以外」のところで学習が成立していることの方がはるかに多いはずだ(個人的な話をすれば、先生方には申し訳ないが、国語の教科書の文章を読むのは好きだったが、国語の授業をおもしろく感じたことはほとんどなかった)。小学生ならいざ知らず、学校の授業など、好意的かつ過大に評価しても、学習の些細なきっかけづくりに過ぎない(と考えるべきだ)。
 学習指導要領が改訂されたり、新教科や新科目が生まれるたびに思うのだが、教育課程の設計図を描く仕事をしている人たちは、「やってる感」をアピールしたり、「言い訳」をするために何かを変えているだけではなかろうか。それは「国家百年の計」ではない。



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