ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

過半数と国葬

 今日も短く。
 土曜日に町内会の役員会があり、コロナ感染の収まりが見えないため、秋のお祭りは今回も中止と決まりました。決定が遅すぎたくらいですが、もう2ヶ月くらい前から今年も無理そうだという雰囲気はありました。でも去年、その前年と、過去2回休止にしてきたため、感染が収まれば何とかやりたいという声に配慮したギリギリの決定だったという見方もできます。最後のダメ押しをしたかたちとはいえ、小生も中止はやむを得ないと思っていました。しかし、週末に何度も集まって、太鼓やお囃子の練習をしてきた子どもたちの姿を見ている人には、今年こそは、という気持ちはあったと思います。他所で花火やお祭りをやっている自治体や自治会を見たりもするので、それを思うと、ますます残念な感じがします。

 今回の祭りの中止は全会一致で決まりました。役員の人数が多いわけではないので、特に意思決定に決まりごとがあるわけではありませんが、だいたいは全会一致です。でも、全会一致で決められない場合はどうなるか。決定を急ぐ必要がなければ保留にして次に回します。その間に、よい案が浮かんだり、意見調整をはかることも可能です。しかし、どうしても意思決定を迫られている場合は、その場で意見調整や妥協がはかられます。全会一致にこだわるわけではありませんが、互いに納得がいかなければ、たとえ長時間に及んだとしても、議論を尽くして意見の集約がはかられるでしょう。それでも、どうしても意見が割れて、もはや妥協が無理となれば、恨みっこなしで多数意見を組織の意思とするということになるかも知れません。そこまで話が進んだのを見た経験がないので、これは想像に過ぎませんが、何かを議決するプロセスとは本来こういうもので、そこには互いの意見、もっと言えば人格の尊重があると思います。

 ところが、組織の構成員が増え、素性のわからない人や、互いの利害が一致しない人が増えてくると、議決に際し、ある程度の信頼関係に裏打ちされた全会一致という方法を採るのはなかなか難しくなるでしょう。意見調整が喧嘩や怨念に発展し、妥協が密約や裏取引に転化するのでは、時間やコストをかける意味も気力もなくなります。議決の度に疲労し、嫌な思いをするくらいなら、最初から過半数や2/3以上といった多数決、あるいは議長裁決といった、約束事を設けておいた方が安心です。現在、議決方法で一般に最も幅をきかせているのは「過半数」ですが、それでも、これは集団が意思決定をする際の選択肢のひとつに過ぎないと思います。だいたい、小生が務めていた学校の職員会議などは、1990年以降は、職員の挙手による採決など一切認めず、ほぼ校長決裁でした。

 「意思決定」に際しては、全員の意見が一致しているにこしたことはありません。「過半数」による「意思決定」は、意見が割れる中、決定を迫られた集団がやむを得ず採用するひとつの方法に過ぎません――それが、今や逆立ちし、「過半数」をとることが「意思決定」だとみなされているかのようです。当然、意思決定の過程で多数者が少数者の同意を得たり、妥協をはかろうとすることなど、無駄なコストとみなされるでしょう。お互いの人格の尊重など、入り込む余地がありません。そこには、全会一致に見られるはずの「精神性」を失った集団の姿があるように思います。要するに、「過半数」至上、あるいは「過半数」の自己目的化は、集団全体、社会全体に対して無関心であり、無責任なのです。

 先週、月刊「Hanada」が行った安倍国葬の賛否を問うアンケートが話題になっていました。「組織票」云々の部分に問題が多々あると思いますが、とりあえずそれは棚上げするにしても、60万票超のうち賛成が51%、反対が43%です――結果、「過半数」の人が賛成だから国葬はいいんだ、ということのようです。
https://twitter.com/HANADA_asuka/status/1562390965499084800

 しかし、もし、これがうちの役員会の祭りの話だったら、10人のうち5人が賛成、4人が反対、1人が保留で、「では、過半数ですので(あっ、すみません、これ、過半数じゃありませんね!)、お祭りをやります」というわけには絶対にいかないと思います。にもかかわらず、4割が反対していても、自民党の二階氏が言うように「国葬やらなかったらバカ」で、「バカ」が反対しているだけだというのでしょうか。
 国民全体で弔意を表すべき(と思われる)国葬というのは、そういうものなのですかと、逆にお尋ねしたいものです。




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