ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

「この程度の国民に……」

 「この程度の国民には、この程度の政治家」――小生は、これは、かつて自民党宮沢内閣で副総理だった故渡辺美智雄氏の発言だと思っていました。実際、30年以上前にこのように言っていたのを聞いたような記憶もあるのですが、Webで調べても引っかからないので(法相だった故秦野章氏の発言というのはありました)、何人もの「先生方」が使い回していた台詞だったのかもしれません。元々は、19世紀イギリスの歴史家トーマス・カーライルの言葉「この国民にして、この政府あり」に由来するようです。
 同じく1980年代の言葉に「経済一流 政治三流」というのもありました。バブル経済の絶頂に向かう頃のことだったと思いますが、日本が「経済大国」「先進国」の仲間入りを果たしたという自信とは裏腹の自嘲をよく映していますし、国民からすれば、「政治も一流」であってほしいという希望を託しているように思えなくもありません。しかし、その当時の政治が「三流」だとすると、今はどうなのか。「政治も一流」であるべきことを望む過去が、もしあったとして、現在は、それとはかけ離れた姿になっていないかと思えてしまいます。

 このあたり、ジャーナリストの青木理さんが、8月24日付毎日新聞・大阪夕刊のコラムで代弁しています。
理の眼:恥をかき捨て走る保身=青木理 | 毎日新聞

 ……旧統一教会(世界平和統一家庭連合)との怪しい関係を次々指摘された政治家たちは、そろいもそろって「旧統一教会やその関連団体とは知らなかった」とか「指摘を受けて調べて初めてわかった」などと「無知」全開。
 でも、長年政界を遊泳してきたベテラン政治家が旧統一教会やその関係団体を把握していなかったとか、果ては旧統一教会がどういう団体か知らなかったなんて、誰がどう考えたってうそ、控えめに評しても詭弁(きべん)。
 逆にそれが本当なら、政治家としての基本的資質すら問われかねないのに、無知の恥をかき捨てているのは、「知っていた」となればさらに突っ込まれ、では教団とどういう関係だったのか、具体的にどんな利害があったのか、さらには反社会的な教団と親密だったことの責任を問われてしまいかねないから。
 だから平然とうそや詭弁で言い逃れ、とりあえずはこの嵐をやり過ごしてしまおうという浅ましき算段。でも、こうした態度が政治と社会に果たしてどんな影響をもたらすか。
 恐るべきことですが、もはや無知は恥ではないのです。だから知らず、聞かず、聞かれたらトボければよし。その場を乗り切れるなら、幼稚なうそや詭弁もお構いなし。それでもいよいよ追い詰められたら、責任を「痛感」はしても「取る」ことはなし。まさにこれが現下日本政治の風景。
 そうやって政治への最低限の信頼もモラルも溶解し、眼前に広がるのは恥知らずたちの荒野。反社会的団体と政治の怪しい蜜月ももちろん深刻な問題ですが、こちらの方が政治と社会に与えるダメージはより広く、より深いようにも思うのですが。

 故安倍氏が、もし日本の政治を「一流」にした政治リーダーだったら、法律があろうがなかろうが、あるいは、手続きに瑕疵があろうがなかろうが(もちろん問題はあります)、おそらく国葬をすることに異議を挟む人はここまで多くはなかったでしょう。どうして、異議や疑問の声が多いのか。それは、今の日本の政治(家)状況、すなわち、青木さんが言うような、「政治への最低限の信頼もモラルも溶解」させ、「眼前に恥知らずたちの荒野」が広がる光景と生前の安倍晋三が重なるからでしょう。
 それでも何でも国葬をする価値がある、世界に向けて国葬をするんだというなら、岸田首相は、それこそ対決する覚悟をもって、国民を説得しなければならないでしょう。しかるに、安全な場所で、安全な記者だけ集めて、書いてある作文を読み上げる。これで、なるほど、岸田の言うとおり国葬をすべきだと、誰が翻意し、納得するでしょうか。

 モリカケ問題でアベ政治が下降局面を迎えた2018年4月上旬、安倍内閣の支持率は38%と、前月より6ポイント低下したと朝日新聞にあります。今の岸田政権の姿と重なりますが、その4月下旬のコラム「日曜に想う」で、編集委員の福島申さんはこう書いています。
改ざん・セクハラ…「この国民にしてこの政府」重い警句:朝日新聞デジタル

 昭和映画の名匠だった小津安二郎の言葉が、このところ胸に浮かぶ。
 「人間は少しぐらい品行は悪くてもいいが、品性は良くなければいけないよ」
 これは小津の生き方の芯であり、人を見る基本でもあったらしい。小津の求めた品性とは、いわば精神のたたずまいであろう。「品行は直せても品性は直せない」としばしば口にしたそうだ。
 言葉遊びのようにも聞こえるが、言われてみれば品行と品性のニュアンスは違う。二つの語を並べて小津が示した人間像を、城山三郎さんの小説のタイトルを借りて表すなら「粗にして野だが卑ではない」となるだろうか。
 新幹線開業時の国鉄総裁だった石田礼助の生涯を描いた一冊である。私欲に迷わず、権力に媚(こ)びず、在任中に勲一等を贈ると言われて「山猿だから勲章は合わない」と固辞した人物だ。
 城山さんは言い訳をしない人間を好んだと聞く。かつてお会いしたとき、流行語にもなった秀逸なタイトルに話が及んだ。「見るからに卑のにじむ人がいますが、そういう人に限って美学とか矜持(きょうじ)とかいう言葉を好んで口にしたがるようです」と苦笑していたのを思い出す。
     ◇
 城山さんも小津も天上から嘆いているに違いない。この国の権力の中枢はいま、荒(すさ)んだ「卑」の景色の中にある。
 国民は自分たちの程度に見合う政府しか持てないと、往々言われる。「この国民にしてこの政府」というきつい警句が議会制民主主義の本場英国には残る。
 その言葉に照らして、いまの永田町と霞が関に目を向ければ、私たちはこのレベルなのかとげんなりさせられる。中枢を担う政治家や官僚から、これほど横柄で不誠実な「言い逃れ」を聞かされ続けた歳月があっただろうかと思う。……

 福島さんが「荒(すさ)んだ「卑」の景色の中」と書いた4年後の今、青木さんは「眼前に広がる恥知らずたちの荒野」と書きました。言葉遊びではありませんが、「荒野」の次は、もう「草も生えない」くらいしか形容句が浮かんで来ません。「城山さんも小津(さん)も天上から嘆いているに違いない」と福島さんは言っていますが、天井で嘆きの声を上げているのは二人だけではないでしょう。でも、天の先人たちを嘆かせ、「見るからに卑のにじむ人たち」をやりたい放題にさせ、眼前に「草も生えない」光景を広げるのは、最終的には我々でしょう。 




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