ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

民主主義に住みつく全体主義

 これは出典は不明だが、ヤスパースが引用した話として知られる。
 ドイツ第三帝国時代、1933年に作られた洒落がある。人には、知的である、誠実である、ナチス的である、という三つの性質がある。そのうち二つは一緒になれるが、三つとも一緒になることは決してない。つまり、知的で誠実であれば、ナチス的ではないし、知的でナチス的であれば誠実ではなく、誠実でナチス的であれば、知的でなく脳が弱いというわけだ。

 「ファシズム全体主義)」と民主主義は対概念のように考えられているが、併存できないものではない。資本主義と社会主義が併存できないわけでもないのと同じだろう。ただ、どちらが割合としてより強いか・より多いかといった占有比率のようなものはあるかもしれない。日本型のファシズム全体主義)と言った場合にも、この「占有比率」を外国の場合と比較することはできるだろう。ただ、まあ、頭の体操みたいにはなるかもしれないが、憂鬱になるのは間違いない。

 昨日、ドイツ哲学・政治思想を専門とする三島憲一の「菅義偉政権の誕生から、日本型のファシズムを考えた 民主主義に住みついたその正体」を読んだ。日本の現況を「ファシズム全体主義)」ととらえることは留保するが、「日本型」のような“独自性“や”特質”はあるだろうと思う。菅政権がいつまで続くかわからないが、読みながらこの“特質”を少し考えた。

 以下、『論座』9月15日付記事より引用する。

菅義偉政権の誕生から、日本型のファシズムを考えた - 三島憲一|論座 - 朝日新聞社の言論サイト


<前略>
現在のファシズムは民主主義を殺すような愚かなことはしない

 ヴィジョンがない。個性と独創性がない。ぼんやりした調整だけ。演説下手で、原稿を離れると日本語があぶなくなる。そして「先人」の継承。ヨーロッパの研究者を泣かせる日本のファシズムのこうした特性は、どこかで菅氏と共通していないだろうか。「先人」の「成果」らしい安倍政治の継承を彼は唱えている。
 もちろん、奈落に落ちたおかげで、SEALDs(シールズ)のメンバーも、東京新聞の望月衣塑子氏も、コラムで健筆を振るう斎藤美奈子氏も、スキャンダル探しはされているに決まっているが(今のところは)逮捕されることはない。官僚生活の末に反旗を翻した前川喜平氏も、GPSによるフォローはされているかもしれないが(今のところは)変な毒を盛られることもない。憲法に保障された規範のゆえだ。戦前戦中とは大きく違う。
 しかし、ここが肝心のところだが、ファシズムは資本主義と同じで不滅なのだ。資本主義がたえざる構造変容によって生きのびているのと同じで、ファシズムも変幻自在、たくみに姿を変えて忍び寄り、包み込み、取り込み、まるめ込むのがうまい。
 ゲシュタポ特高がうろうろしていたかつてのファシズムだけを考えていてはだめだ。現在のファシズムは民主主義の中に住みついて、民主主義を弱体化させていく。しかし、殺すような愚かなことはせずに、たくみに利用するのだ。それには安倍晋三より菅義偉の方が合っているようだ。

マスコミに暴力的統制は必要ない

 早い話がマスコミ操作だ。かつては露骨な検閲で新聞や書籍の一部が黒く塗られていたが、現在では記者クラブ制度を利用し、そのつどの幹事社に誇らしい気持ちを抱かせ、有力メディアの政治部キャップと食事をする。
 記者たちは、内心ではしっかり距離を取りながら近づいて迫真の取材をするのだと思い込んでいるが、結果は、一定の意図でなにげなく漏らされる話をトクダネ気取りで流すだけだ。こうしたマスコミ操縦術は官房長官記者会見などから推し量るかぎり、安倍晋三より菅義偉の方が頭が回るようだ。
 かつては各国比較で報道の自由度は最高時は11位だったのだが、60位以下に落ちている。少し古いが2014年の『タイムズ』によれば、NHKの英語放送では慰安婦問題は扱わないようにとの文書が存在するとか(NHKはもちろん否定するに決まっている)。ドイツ語の熟語でいう「頭の中のハサミ」があれば、検閲などは必要ないのだ。
 それにどのみち、情報公開の手続きを踏んで政府に要請した文書はほとんど黒塗りだ。コロナ関係の会議には議事録もない。あってもすぐには公開されない。
 また政府に、特に菅氏に気に入らない発言をしたテレビキャスターたちは、気がついてみると交代していた。もちろん、理由は政府の圧力のゆえではないことになっている。
 電通による広告取り扱いを通じての、原発報道への規制もよく知られている。「そんなことはない。報道の自由は保障されている。広告は市場原理に依拠して依頼しているだけだ」。うんうん、きっとそうでしょうね。調整型の日本的ファシズムが民主主義を尊重し、弱体化させながらも、つぶさないその巧妙さには舌を巻く。早朝機動隊に新聞社を襲撃させるなど、露骨な介入に余念のないトルコのエルドアンなどは幼稚のかぎりだ。ネオリベラリズムの経済政策を押し通し、やりたい放題のことができれば、暴力的統制は必要ない。民主主義を尊重しよう、というわけだ。

批判する女性と、言うことを聞く女性と

 民主主義の枠内に住みついたファシズムの次の例は、れっきとした女性蔑視だ。流行りの言葉で言えばミソジニー。菅氏とそのお仲間たちはミソオ君たちだ。
 テレビ番組への出演時でも菅氏は、若い女性キャスターから厳しい質問が出ると、途端に不快感を表す。女性に、それも若い女性に論理的にかかってこられるのがきわめて苦手らしい。それもそうだろう、男性政治家や官僚とあいわたる時に機能している、言語や論理以外のコード、暗示、ほのめかしがまったく役に立たないのだから。東京新聞の望月衣塑子氏を遠ざけるのは、その政府批判のためというより、女性からの批判だからだ。「あなたにお答えする必要はありません」。
 半面、言うことを聞く女性には、明るいいいおじさんの対応だ。すでに安倍政権での岩田明子氏や自民党若手女性議員への待遇を見ればわかる。民主主義社会だ。男女同権だ。女性活躍のキャッチフレーズにあるとおりだ。ジェンダー・ギャップなどの批判は「あたっていない」「適切に対応している」。

権力とカネのドッキング

 民主主義の枠内に住みついたファシズムの最も大きな例は、事実の無視だ。真実と嘘のすり替えどころか、真実と嘘の区別の撤廃だ。菅氏はテレビ出演時に、安倍政権下での非正規雇用の増大をキャスターが指摘すると、それには答えずに、つまりその事実と向き合うことなく、雇用の一般的な増大、有効求人倍率が全国どの都道府県でも1を上回ったという主張にすり替えた。この求人には非正規雇用も含まれているのに。生活保護受給者は減っているという主張もしていたが、事実はまったく逆なことは政府統計が示している。だが、昔の池田首相と異なって「貧乏人は麦飯を食え」という露骨なことは、民主主義を尊重する以上(少なくとも公の場では)言わないで「自助」をいうところがミソだ。
 韓国との徴用工や慰安婦問題でもそうだ。菅氏は、韓国の「国際法違反」を厳しいトーンでなじるが、個人請求権が消滅していないという、かつて政府が国会答弁で認めた法的事実も無視している。
 一事が万事これだ。これに比べれば「日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ」とか「一億総活躍社会」などの安倍晋三の法螺(ほら)は、まさにピエロであり、誇大宣伝にすぎない。
 ただ、強い側について合法・非合法のあいだのグレイ・ゾーンでカネさえ儲ければいいんだ、という、もともと長い自民党支配下で醸成されたメンタリティがこの8年の間にさらに強化されたことはまちがいない。
 権力とカネという現代社会に顕著なふたつの欲望の対象が実は相互に変換可能となる度合いが進化している。露骨な弾圧は適さないのだ。この権力とカネのドッキングこそ、民主主義の中に住みつき、ある程度の民主主義を必要とするファシズムの正体なのだ。菅義偉の政治的振る舞いの一つ一つにこれが読み取れる。
 どこでも指摘されているので今さら述べる必要もないが、臭いものに蓋をするのを手伝ってくれた忖度官僚たちへの、出世という贈り物(在ローマ大使館だって! いいなあ!)などももちろん、民主主義の中に住みついたファシズムの醜い側面だ。官僚といえども家族も生活もある。彼らのほとんどはやめたらなんの資格もない人たちだ。ついて行かざるを得ない。
 ただ、安倍晋三は個人的知己との関連が疑惑の対象となったのに対して、菅義偉の場合は、特定の業界、例えば観光業界やカジノ推進勢力などと結びついているらしいという点で、もっと構造的、すなわち合法的癒着の疑惑が強い。
 自民党支配下で田舎町の道路工事まで、それこそ全国津々浦々まで張りめぐらされているこうした構造がさらに柔軟かつ巧妙になるだろう。露骨な弾圧は大損になることを知っているが、特定業界の優遇はより巧妙になる。そして令和おじさんとして、苦労人、パンケーキを演出する(河井案里とパンケーキを食べているシーンもネットには出回っているが)。東條英機も、全国を動き回り、庶民と交流し、「いいおじさん」を演出していた。

菅義偉に、規範的転回は起きうるだろうか

<以下略>



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