ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

8月15日のこと

 「8月15日 終戦記念日」。今年は夏の全国高校野球がないので、昼の12:00に合わせたサイレンは響かない?(いや、交流試合をやっているので、あるのか?)そのサイレンの音ともにお盆の昼間にいっとき75年前を思い起こす。そんな“風景”が続いてきた。
 「当たり前」なことにはあまり疑いをもたないものだが、「終戦」ということばと「敗戦」ということばが混交していることに気づいてから、何となくこの「当たり前」が揺らぎ始めた。
 日本の戦争責任を意識する人たちは「敗戦」という語にこだわりがある。「終戦」という語は主体性を欠く、戦争はどこかからやって来て、どこかへ去っていくようなものなのか。それでは「しょうがないよ、また、戦争になっちゃったんだから」ということにならないか、というわけだ。小生にもいっときそういう時期があった。
 では、「敗戦記念日」とことばを置き換えるとどうなのか。何となく座りがよくない感じがする。それは「敗戦」を「記憶(記念)する」という妙な倫理観、使命感にともなうズレもあるが、それだけではない。戦争は確かに台風や地震とはちがって人間がするものだが、戦争をする・しないを判断する為政者とはちがい、無理やり当事者にさせられた人々には、やっと戦争が終わったという安堵感、もう戦わなくていい、平和な時代が来るという喜びは格別に大きいだろう。「終戦」という語にはこうした市井の人々の率直な気持ちを汲んでいる面がある。

 「8月15日」という日付の方はどうか? これについては、むかし、佐藤卓己さんの論説を読んだことを思い出す。確か、岩波の『世界』だったか、『現代思想』だったか……。もう手元にはないのでわからないが、佐藤さんは、8月15日=「終戦記念日」とする根拠を鋭く問うていたように記憶している。他の多くの国のように休戦協定が結ばれた日を「終戦」と考えれば、先の戦争の場合、アメリカの戦艦ミズーリ号で降伏文書の調印式が行われた9月2日が妥当する。あるいは、別の可能性として、日本政府がポツダム宣言を受諾した8月14日もあるし、全面講和ではなかったが対日平和条約が調印された1951年9月8日(サンフランシスコ講和)もある。そんななか、8月15日というのは、前日録音されていた天皇の「終戦詔書」朗読が日本国民に向けてラジオ放送された日(「玉音放送」の日)である。なぜ、この日でなければならなかったのか。

 以下に、人の書いたものだが、佐藤さんの論を紹介した2011年8月15日付「記憶の政治学――なぜ8月15日が終戦記念日になったのか」を貼り付ける。

記憶の政治学――なぜ8月15日が終戦記念日になったのか - リスタート

▲8月15日が終戦記念日になる時
 佐藤は、進歩派と保守派の利害が一致した「記憶の五五年体制」によって8月15日と終戦記念日の結び付きが成立したと論じている。すなわち、丸山真男が「八・一五革命」の日として8月15日を位置づけたように、進歩派にとって8月15日は民主化のスタート地点として大変都合が良かった。また、保守派にとっても「聖断により国体は護持された」という考えから玉音放送は重要であり、終戦記念日としてふさわしかったのである。両者に共通するのは、9月2日が降伏記念日であるということを「忘却」しようとしている点である。これにさらに、1939年から8月15日に行われ続けた、うら盆としての戦没者追悼式の全国中継放送が重なることで、8月15日が終戦記念日として固まっていったのである。
 8月15日が終戦記念日であるという集合的な「記憶」が作られていく過程は、9月2日の降伏記念日や、終戦直後は国民にとって大事な日であった4月30日の「招魂祭」、「本当の終戦」と考えられていた講和条約が結ばれた9月8日の「平和の日」といったものが「忘却」されていく過程でもあった。こうした「記憶」と「忘却」の作用の結果「八月一五日の神話」はできあがっていったのである。
▲メディアが創る「玉音体験」
 メディア研究者である佐藤は、この神話形成にラジオというメディアが寄与した役割について考える。佐藤によればラジオは、「内容を伝える」活字メディアと異なり、「印象を表現する」特性が強い。8月15日の玉音放送の際も、人々は「内容」より「印象」に集中し、その「印象」が神話形成を後押しした。「詔書」は一般国民には難解な漢文体で、理解することは難しい。実際、玉音放送を聞いた人は内容は理解できなかったと回想している。そのために、玉音放送では天皇による詔書の朗読(4分27秒)の後、再朗読を含め32分ものアナウンサーによる解説が続く。人々はこの解説部分でその「内容」を理解したはずである。しかし、人々の記憶に残っているのは天皇による朗読の部分、すなわち「印象」の部分だけで、解説の部分、つまり「内容」の部分はすっかり忘れられてしまっている。 「皆様御起立を願います」ではじまる玉音放送は「儀式」としての性格を持っていた。儀式へ国民全体で参加した、という直接的な感覚こそが、「集合的記憶」として人々に残ったのである。
 この体験を増幅させ、強化したのが新聞、雑誌などのメディアであった。先に述べたように、「終戦詔書」の原稿は14日には完成していたし、また、この原稿は14日の深夜には新聞記者団に配布されていた。しかし、玉音放送まで配達は禁じられ、15日の午後、玉音放送終了とともに配達されるに至る。ここで奇妙な事がおこる。14日の深夜に制作されたはずの新聞に玉音放送を聞く国民達の様子が描かれているのである。14日の時点で玉音放送を聞く国民達の様子の原稿がかかれていたということであるが、要するに、戦後の国民がふるまうべきモデルはすでに「戦中」に準備され、それが玉音放送終了と同時に配られ、人々に提示されたのである。
 佐藤はアメリカと日本を対比させ、興味深いことを述べている。アメリカ側の歴史では、日本の「対米覚書」(最後通牒)によって戦争が開始され、降伏文書で戦争が終わった。文書主義的歴史観である。一方、日本では、12月8日に国民に向けたラジオの臨時ニュースで戦争は始まり、やはり国民に向けた玉音放送で終わった。音声主義的に歴史が語られるのである。 
▲断絶と連続
 最初に、戦前と戦後の間の「断絶」と「連続」が佐藤の研究の大きな軸であると述べた。佐藤によれば、日本社会・メディアには戦前と戦後に「断絶」があるとする断絶史観が普及しているが、このことは戦前と戦後にある「連続性」を忘却あるいは隠蔽する。だが、戦前と戦後はそれほど断絶しているのだろうか。佐藤の答えは否である。佐藤は様々な事例を挙げ、そのことを例証する。 これまで述べてきた「八月一五日の神話」はまさにその「断絶」の恣意性を示すものの一つであった。


 各国で異なる「終戦記念日」について、昨日8月14日付「日本経済新聞」が伝えている。「思惑」というには卑小すぎるが、それぞれの「事情」はあるのだろう。

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出所:https://gogotamu2019.blog.fc2.com/blog-entry-14140.html


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