ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

「誰かの花」・奥田監督の話

 「誰かの花」という映画があるのを知りました。1月29日から横浜シネマ・ジャック&ベティで上映されていて、評判もよいようです。興味はあるのですが、見たいような見たくないような複雑な感じがあります。認知症の男性の家族の話が出てくるようなので、去年の夏に亡くなった父親と(自分に)向き合わなければならなくなる気がするからだと思います。
奥田裕介監督「誰かの花」に中野量太監督、小路紘史監督、藤元明緒監督ら絶賛コメント : 映画ニュース - 映画.com

 監督の奥田祐介さんのインタヴュー記事があります(聞き手は此花わかさん)。一部引用させてください。

親が突然「加害者」になる高齢化社会を、私たちはどう生きればいいのか(此花 わか) | FRaU

被害者遺族が「加害者の家族」の視点を描いた理由
――本作は監督の実体験に基づいているとのことですが、監督はお身内を交通事故で亡くされたと聞きました。なぜ、本作の主軸となる事件を交通事故ではなく植木鉢の事故にしたのでしょう?
 奥田監督最初は「交通事故はダメだ」という被害者目線のお説教じみた物語になっていたんです。自分が被害者の遺族になったとき、通りでトラックが側を走っただけでものすごく怖くなりました。身内を亡くしたショックを頭が整理できていない状況で、自分が車を運転するのも恐怖でした。
そんなときに、もし自分が被害者と加害者、どちらかの家族を選べるのなら、被害者の家族を選ぶかもしれない、と思ったんです。もし加害者の家族になってしまったら、どこに心をもっていってよいか分からない、人として崩壊してしまうんじゃないか、と。
そうして事故から時間がしばらく経ち、距離を置いて自分の脚本を読めるようになったとき、この説教くさい物語が自分の映画の原体験とはかけ離れていることに気がつきました。だから、被害者遺族としての個人的な経験を直接描くのはやめて、被害者・加害者側の両方の視点をあわせもった物語にしたんです。

高齢化社会を象徴する「団地」
――映画のタイトルが『誰かの花』ですが、ベランダから落ちものを花の植木鉢にしたことに特別な意味はあるのでしょうか?
 奥田監督花ってある種、“命そのもの”を表現するような気がしたんですね。落ちてくる物なら鉄アレイでもよかったのかもしれませんが、花なら観た方がその人なりの意味合いを見つけてくれるかもしれない。だから花を色々なシーンに盛り込みました。

――花の演出も秀逸でしたが、団地という限定的な空間に強風が吹いてきて、物語にエモーションを与えているのも印象的でした。
 奥田監督強風が起こる日って何か起こりそうな予感がしませんか? そんな予感を抱きながら夕方のニュースをつけると、実際に事件が起こっていたりするんですよね。いまは昔と比べて強風、大雨や極暑の日が増えてきました。そういった気候変動の変化を人々が生活をする空間に入れることで、“いまの日本”を表現したかったんです。
それに団地って大勢の人が住んでいるので、落ちてきそうな危ないモノが無造作に置かれてあったりして、何気に危険だったりもするんですよ。

――団地が現代社会を象徴する、という意味ですか?
 奥田監督脚本を書く段階で、この話の舞台はマンションじゃないと思っていました。ちょうど自分の実家近くに、古い団地からURのタワーマンションみたいな団地まで、様々な団地が連立している“団地山”みたいな場所があるんです。そこへ行って脚本の構想をボーっと考えたりすることもありました。
すると、通り過ぎる人たちがおじいちゃんやおばあちゃんばかり。郵便局もスーパーもあり、そこだけで生活が成立する場所なんです。まさに高齢化社会を象徴している空間だと感じ、映画の舞台を団地にしたいと思いました。
そして、脚本を書く段階でちょうど認知症の叔父に頻繁に会う機会があったので、認知症老老介護も自然に物語に組み込まれていきました。映画には“当事者”という言葉がよく出てくるのですが、現代の高齢化社会においては誰もが当事者。僕は被害者の遺族になりましたが、加害者にもいつでもなり得ますし、そのときに「自分だったらどうするか?」と、物事を他人事として正論で処理せず、当事者意識を持つことが大事なのかもしれません。

……
リアルな描写で表現した、認知症患者の心理
――孝秋の父親は認知症で、部屋の至るところにメモが張られていたり、冷凍庫に眼鏡が入れられていたりしています。そういった認知症の老人をとりまく環境もリアルに映し出されていました。
 奥田監督叔父とのコミュニケーションや取材から得た経験を反映しました。認知症の方ってすごく不安なんですよ。自分のなかで確かだったものがどんどん崩れていってしまう。「自分が変わっていくかもしれない」「分かっていたものが分からなくなってしまうかもしれない」と不安でしょうがないんです。その不安をモノで埋めようとする人もいる。だからペットボトルのキャップなど訳の分からないモノをタンスや冷凍庫に隠したりするんです。
認知症の方には、自分が迷惑をかけていることを自覚している人もいます。迷惑をかけていなかったときの自分を覚えているからこそ、「迷惑をかけているから何かをしてあげたい」という気持ちでいっぱいなんです。それが逆に人に迷惑をかけてしまうときもあって……。例えば、洗濯物をたたもうとしてぐちゃぐちゃにしたり。これも「善意から起こる悲劇」ですよね。

家族だけで介護をするのは限界がある
――映画では認知症の父親の面倒を同じく高齢の母親がみています。実体験や取材を通して、奥田監督が感じる老老介護認知症の一番の課題は何だと思いますか?
 奥田監督家族だけで介護をするのは限界がある、ということ。孝秋の父親は要介護3であるべきなのに、母親が同居しているから要介護2や1に下がってしまう。母親も高齢なのに。映画の冒頭で父親が家を黙って出て車に轢かれそうになりますが、轢いてしまうほうもある意味、被害者になってしまいますよね。
また、認知症や介護について理解が深まっていないことも問題だと思います。例えば「この人は認知症なので、声をかけてください」などといった注意を呼び掛ける認知症マークや民間が販売するGPS機能つきキーホルダーなどもまだまだ広く浸透していません。
それに、介護をする家族側にも「他人に迷惑をかけてしまう」と行政サポートを遠慮する人が少なくない気がします。とにかく、「認知症や介護を家族が一手に受け入れるのは無理だ」という意識をもっと広める必要があると思います。高齢者による車の運転などもよく話題に上りますが、この高齢化社会では誰もが被害者にも加害者にもなり得るのですから、コミュニティ全体で認知や理解を深めて考えていかなければいけないと思います。

大切な人の死を忘れることは悪いことなのか
――劇中、交通事故の被害者遺族が集う自助グループ「あすなろ会」が出てきます。
 奥田監督数年前にアルコール依存症グループのAAミーティングを取材したことがあり、「話すだけで救われる」こともあると知りました。僕が行った死亡事故遺族の自助グループではいろんな考え方に触れることができました。
身内を亡くす苦しみには様々な感情があり、その対処は人それぞれです。僕の場合はその喪失感を癒すのに長い時間が必要でしたが、それを一気に埋めるため、憎しみや戦いが必要な人もいるかもしれません。
映画の孝秋自身は戦う自助グループに参加しているけれども、両親には憎しみという感情をもってほしくないと思っています。癒しや赦しにも様々な葛藤や思いがあることを見せたかったのです。

――監督は葬儀屋さんで働いているとか。
 奥田監督はい。葬儀屋で働いていると、「みんな本当に死ぬんだな」とつくづく感じます。“死”は死んで行った人のものではなくて、残された人々のものになるんです。人は憶えることよりも忘れることのほうが難しい。憎しみをもち続けることで亡くした家族のことを忘れないようにしている自助グループ認知症の父親を通して、「忘れることが本当に悪いことなのか」「忘れていくからこそ、よいこともあるのでは」「忘れないようにしているのが救いになるのか」というテーマをみなさんにだけではなく、自分にも問いかけたかったんです。

――最後に、読者に伝えたいことはありますか?
 奥田監督“他者への想像力”をこの映画を通して少し感じていただけたら嬉しいです。最近、多くのニュースが「この人は悪い人だ」「この人は昔こうだった」と一面的に報じます。でも、この映画を観て次にニュースを見たり読んだりしたときに、他者に対して一瞬でも想像力を広げてくれたらこの映画にも少しの価値はあるのかなと思います。

 すべては時間が解決してくれると思うしかありません。映画はもう少したったら見ようと思います。


↓ よろしければクリックしていただけると大変励みになります。


社会・経済ランキング
にほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
にほんブログ村