朝、可燃ゴミを出しに外に出たら、雨は止んでいた。山鳩が鳴いている。
ふと、今日は、父親が病院に行く日だったことを思い出した。施設では父親との面会がままならないが、病院では落ちあえるので、楽しみにはしていた。
家のカレンダーには、あれこれ今後の予定が書いてあるが、そういうのを見るたびに、「本当は今日は……する日だった」と思い起こすことになるのかと、ちょっとしんみりしてしまった。葬儀まではまだ少し間がある。
朝日新聞デジタル8月15日付記事に、長谷部恭男さん(憲法 早稲田大教授)、杉田敦さん(政治理論 法政大教授)、加藤陽子さん(日本近現代史 東京大教授)の鼎談があり、興味深く読んだ。
加藤さんは、ご存じの通り、学術会議の会員から外された一人だが、Wikipediaには、
「小泉政権(2001~2006年)以降、政府の公文書管理に関わり、内閣府公文書管理委員会委員や「国立公文書館の機能・施設の在り方等に関する調査検討会議」の委員を歴任。上皇明仁も、天皇在位中、歴史談義のために、保阪正康や半藤一利とともに加藤をしばしば招いていた。…」
…と紹介されている。
おそらく実務的に手堅い仕事をされていたはずだが、こういう方を「理由を明らかにせず」、メンバーから外してそのままにしているのが今のスガ政権だ。現在の無能・無策・無謀の「三無」ぶりは、昨年秋の段階でもう「約束」されていたことだったのかと思える。
以下、部分引用。
コロナ敗戦から考える「危機の政治」と「政治の危機」 :朝日新聞デジタル
杉田:場当たり的な政府の対応については、『コロナ敗戦』、あるいは、無謀な作戦で多数の犠牲者を出した太平洋戦争末期になぞらえて、『TOKYO2020』ならぬ『インパール2020』などとネット上では言われています。近現代史を専門に研究されている立場として、どうご覧になっていますか。
加藤:やはり、エビデンスに基づいた政策決定が不得意な国なのだと思います。菅義偉首相が楽観論に流れて判断を誤るのは、もちろん彼自身の資質にもよりますが、日本の統治システムの『宿痾(しゅくあ)』であるとも言える。夏なので戦争の話をしますが、たとえば1941年の秋、東条英機内閣が対英米開戦を決定するさいに御前会議にあげた船舶の喪失予想データは、本来の専門の部署が算出したものではありませんでした。対英米開戦に前のめりの人物がその手下に命じ、なんと航空機による損害を含まない第1次大戦期のドイツの船舶喪失量から算出した、過小に見積もられた不適切なデータを御前会議に上げてしまうのです。専門家でない人物が数日間ででっち上げた数値の真贋(しんがん)を問える力を、御前会議に居並ぶ為政者の誰ひとりとして持っていなかった。おそらく今回の『コロナ敗戦』も、都合のいいことしか聞かなくなった為政者のもとに、叱られてもよいから、本当の正確なデータを上げる人がいないということなのでしょう。
長谷部:最近、フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユの本をよく読むのですが、彼女は『重力と恩寵(おんちょう)』の中で、人間は執着に弱いと言っている。何かに執着すると幻想が生まれ、その幻想によって『きっとうまくいくはずだ』と自分の願望を正当化しようとする、人間とはそういうものなんだと彼女は強調しています。加藤さんご指摘の点は、これと同じメカニズムだと思います。
杉田:菅さんはオリンピックに執着して、コロナもなんとかなるという幻想を抱いたと。
長谷部:そう。執着によって何が現実かを見ることができなくなるから、正しく考えることも正しく判断することもできない。幻想の中で物事が回っていくことになります。
<中略>
長谷部:……コロナ禍のオリンピックは典型的な『二重効果』です。開催することが、感染拡大や医療状況の逼迫という非常に大きな副作用を引き寄せてしまう。だからといって絶対にオリンピックをやってはいけないということにはなりませんが、なぜやるのかという正当性を内閣、政府はきちんと説明する必要があるし、副作用とのバランスも取れてないといけません。しかし、菅さんは、まったく説明をしようとしない。『安心・安全な大会』という『おまじない』を繰り返すばかりです。菅さんという人は自分の政治的な判断について、理由を示して説明するということをそもそもしてこなかった人ですね。
杉田:説明しないといけないと思っているのに説明しないのか、説明しなければならないことを理解してないのか。私は後者じゃないかと思います。自らの政策判断について、メリットはこれで、デメリットはこれと論理立てて説明する責任があることを理解していない。長谷部さんはいま、菅さん個人のキャラクターというか政治家としてのレベルの問題を強調されましたが、菅さんひとりで物事を決めているわけではないので、日本の中枢部が、いわば全体として説明責任を意識していない、国民に説明して理解を求めなければならないという意識をそもそももっていないということではないでしょうか。菅さんは米紙ウォールストリート・ジャーナル日本版に『オリンピックをやめるのは一番簡単なこと』『挑戦するのが政府の役割』と語ったそうですが、東条英機が『人間一度は清水の舞台から飛び降りることも必要だ』みたいなことを言って対米開戦に突っ込んでいった、そのレベルからいまだに脱せていない。日本の統治システムの宿痾だと、私も思います。
加藤:やはり人事権を握った、官房長官時代からの菅さんと、杉田和博官房副長官のふるまいが大きいと思います。彼らは説明『しない』ことによって、忖度(そんたく)させるという権力の磁場を新たに作った。そういう誤った方向での強い自負があるのではないか。
杉田:確かにそうですね。加藤さんら6人の方が任命拒否された日本学術会議の問題も、本来は単なる公務員の人事の問題ではないのに、菅さんや杉田さんは単なる人事の問題という解釈で突き進んだ。人事だということにしてしまえば説明は必要ない、上司と部下という権力関係で動かせると。彼らは結局、国民との関係についても同じように捉えているのではないでしょうか。本来、政治家は国民の代表にすぎず、国民に対して一方的に命令できる『上司』などではない。むしろ、国民の方が誰に任せるかを決める立場にあるわけです。それなのに国民に説明しないのは、代表民主制のシステムを理解せず、政治家が一方的に命令できるという間違った権力観を持っているからでしょう。
日本国政府の、というか、スガ政権のカレンダーは、不幸があろうが何だろうが、一旦記入したら、物事が「予定」どおりに進むものらしい。今日だけでも、そんなカレンダー、あればお借りしたいと思う。
<追記>
今朝、テレ朝の「ことば検定プラス」を見ていて思った。
福沢諭吉の『学問のすゝめ』の冒頭、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」は有名なフレーズだが、真意は、その続きにある。林修先生も解説されていたが、
「されども、今廣く此人間世界を見渡すに、
かしこき人ありおろかなる人あり貧しきもあり冨めるもあり貴人もあり下人もありて
其有様雲と坭との相違あるに似たるは何ぞや」と。
(けれども、今広くこの人間世界を見渡すと、賢い人がいて、愚かな人がいる、貧乏な人がいて、金持ちの人がいる、身分の高い人もいるし、低い人もいて、このような雲泥の差があるのはなぜだろうか?)
その理由は、学問をする、しないの差、要するに、勉強しない人はダメになるということ。
スガ総理、ご存じでしたか?
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