ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

『資本論』再読のこと 

 マルクス資本論(の関連本)がよく読まれているという。小生も先月、筑摩書房マルクス・コレクションで第1巻だけを通して読んで、懐かしかったし、昔は気づかなかったことがいくつかあった。内田樹さんも似たようなことを指摘していたが、「……論」という先入観から理屈ばかりだと思っていると、意外に同時代のイギリスの社会史的叙述が多い。まるで同志エンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』を読んでいるかのようだ。
 それでも第1巻だけで1,000頁を超える大著である。活字離れが言われて久しい現在、一過性のブーム?だけで多くの人がこれを読み通せるものなのか。

 酒井隆史さん大阪府立大学教授)が『資本論』再読の意味とマルクスの再評価について、インタヴューに応じている。
 以下、3月29日付毎日新聞の記事より部分要約する(聞き手:清水有香記者)。

「資本論」なぜ今読まれる? 酒井隆史・大阪府立大教授に聞く | 毎日新聞


マルクスが見直される背景
 世界的には今、ラジカルジャーナリズムの花盛りの時代といわれる。若い世代を中心に、マルクスアナキズムフェミニズム、先住民の知恵などに依拠しながら、この社会を変えなければならないという共通認識が強まっている。……
 たとえば「ブラック・ライブズ・マター(BLM、黒人の命は大事だ)」では資本主義とレイシズムの不可分の関係が問われ、刑務所、警察機構の縮小や廃止といった提案がなされている。特に新世代を中心とする気候変動に対する運動は、肉食の問題や飛行機の使用などの日常的習慣を、温暖化と深くつながっている問題とし、別の生活のあり方を模索している。気候変動の問題もレイシズムの問題も、経済や階級の問題、資本主義の問題とダイレクトに結びついているという認識がこの危機の中で高まっている。
 冷戦終結以降だと、たとえばグローバル化が進む世界秩序を「帝国」という概念で捉えた、マルクス派のアントニオ・ネグリマイケル・ハートの共著「<帝国>」(2003年)。あの本が読まれた背景には、冷戦終結以降のある種の希望がふっとんだ2001年の米同時多発テロがあった。戦争はなくなり、軍事費が削減されて「平和の配当」といわれたが、民族紛争は激化するし、どうも違うぞ、と。おそらくいつも支配的にいわれていることが破綻したときに、マルクス派が参照される。あるいは資本主義の下で格差は拡大していくと論じたトマ・ピケティの著書「21世紀の資本」(2013年)は、2008年の金融危機以降、貧困と富との不均衡な蓄積が起きているという認識の中で読まれた。今回はそれとは異質だ。より事態は複雑で、地球全体の持続がもはや限界にきているんじゃないか、という中でマルクスの議論が見直されている印象だ。

ネオリベという「ご都合主義」
 基本的に、ネオリベラリズムというのは融通無碍(むげ)で、ご都合主義的な体系。資本主義のその都度の形態にあわせてさまざまに自らを変容できる。これは人類学者のデビッド・グレーバーの言い方だが、「ネオリベラリズムは資本主義以外のシステムにつながるようなあらゆるものを抹殺していく政治的イデオロギーだ」という。資本主義が危機に陥っていく中で、にもかかわらず、ネオリベラリズムイデオロギーがそれ以外を想像することを不可能にするように作動していく。
 ネオリベラリズムは、すべてを企業化して競争化にさらした社会を目指す。規制緩和で自由化して、というと我々が解放されるイメージを持つが、実際は違う。その規制緩和と自由は、人を競争の主体に仕上げていくところに向けられるので息苦しい。(動画配信サービスの)「ネットフリックス」で、「ブラック・ミラー」というブラックな近未来を描いたドラマがあるが、その中で家族も職場の人間も、あいさつの仕方からすべてスマホで互いを評価し合い、競争する。ある意味、ネオリベラリズムの理想だろう。そこでは、みんな頑張っただけ豊かになっていくとイメージされるわけだが、むしろ破局の不均等な再分配が進み、そこから外れてくる人が出てくる。そして国家がどんどん暴力的に、懲罰的になっていく。要するに負けたやつは自己責任で、競争に敗れただけ。「人的資本」としての自分の価値を高める努力を怠っている、と。……

大衆の中で生きた思想
 私はマルクスよりマルクス主義が大事だとよく言っている。それはマルクス自身が常に民衆の願望や闘争の中から自分の発想をくみとり、展開させた人であり、「大衆の中で生きたマルクスの思想」ということがあくまで大事だということ。マルクスだけを偉大な人として取り出すだけではほとんど意味がない。単に「マルクスはすごい、天才だ、それを読めば今も分かる」というのは個人崇拝やテキストへの権威主義に過ぎず、スターリニズムや中国のような独裁的な政治の権威主義と共鳴する危うさがある。マルクス自身の著作や実践の中にも、権威主義的要素と反権威主義的要素が混在している。
 現在の国内のブームをみる限り、たとえば戦前から日本でよく読まれたマルクス派のローザ・ルクセンブルクのような、もっとも反権威主義的でアナキズムに近く、フェミニスト的問題意識を持ち、かつ環境との関係で資本主義を論じた、まさに今アクチュアルな思想に関する議論がほとんどない。そういう、時代の中で生きたマルクスの思想にあまり関心が集まっていないことを危惧している。
 資本主義ではない社会の可能性について。マルクスに言わせれば、資本主義は永遠ではなく、歴史を持った産物だ。日付をもって始まったものは日付をもって終わる。私たちは資本主義をあまりに巨大に考えすぎている。資本論マルクスを今、参照する意義があるとすれば、その思い込みに過ぎない制約を、一つ一つ解除していく想像力を解放してくれる点にある。何かを必然だという知ではなく、その必然性を問う知。根源からものを考えるとはそういうことだ。
 ……アナキストたちは言う。「自発的に隷従するから王が強大に見えるけど、その強大さは自分たちがつくっているだけだ」と。つまり、朝起きて「やーめた」といってみんな一斉にやめればいいだけの話。でも、そううまくはいかない。その理由をだれよりも精密に考えたのがマルクスだ。今、重要なのは、マルクスの根底にあるアナキスト的発想、つまり「本当はやめられるのだよ」という発想ではないか。
 マルクスは最後まで大衆への信頼を手放さなかった。おそらく今は可能性に開かれた時代であり、想像力でいろんな可能性を考えていく時代だ。答えは誰も持っていない。大衆の事業として実験を繰り返しながら、違う社会を模索していくしかないのだと思う。


 ネオリベラリズムが「ご都合主義的な体系」という指摘はその通りだと思う。“偽善” と言ってもよいくらいだ。
 ネオリベ信奉者には、たとえば、1億円の資金をもつAと1万円の資金しかないBに無理やり投資競争をさせて、Bが負けたら「自由競争」だからしょうがないと言い、奇跡的にBが勝ったら、以後の投資では手持ち金の1%までしか使えないことにするとか何とか、平気で新ルールをつくってしまうような人がいる。こういう不公正でも、プレイヤーにされた人々がこれを「内面化」していれば、負けたら「自分の責任」だとあきらめてくれる。そもそもプレイヤーになる必要のない人にまでプレイヤーの資格が与えられて、競争に駆り立てられ、巻き込まれるのである。ネオリベが「イデオロギー」だというのはそういうことだと思う。
 「自助」に染まるこの国ではこれが罷り通らんとする。本当は全然そんなことはないのに……である。



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