ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

イタリア学会の声明

 日本学術会議の任命拒否問題に関して、日本のイタリア学会から10月17日付で抗議声明が上がっていることを知った。

 学会会長の藤谷道夫慶應義塾大学教授の名で書かれたこの声明文で、学会は、スガが明確な理由の説明をせず、その要求をほぼ拒み続けていることは、学問の自由の理念に反すると同時に、民主主義に対する敵対行為であり、「暴力」だと非難している。官邸前で抗議のハンストを続ける菅野完さんも同じくこれを「暴力」と言った。スガは今回の人事介入では「丁寧な説明」などという、これまでの政権の常套句さえかなぐり捨てているのである(所信表明演説でも学術会議のガの字もなかった)。

 “ 説明せよ できないなら 辞職せよ ”である。

 以下、声明文の「理由」の終わりの部分を引用する。

http://studiit.jp/pdf/%E5%A3%B0%E6%98%8E%E6%96%87%EF%BC%88%E7%90%86%E7%94%B1%E4%BB%98%E3%81%8D%EF%BC%89.pdf


<前略>
……(《説明しないこと》は権力である)これが現実になったのが、ソヴィエトである。ソルジェニーツィンの『収容所群島』にはまさに何の《説明もなしに》逮捕され、強制収容所に連行される日常が記録されている。逮捕するのは決まって深夜である。深夜に訪れることで逮捕者を恐怖させる効果を狙ってのことだが、また同時に、近隣住民が翌朝、隣人が忽然といなくなったことを知って恐懼するよう仕向けるためでもある。これが不安をかき立て、恐怖を蔓延させる。いつ自分が逮捕されるか人々は戦々恐々とし怯えるようになる。これによって国民は心理的に権力によって完全に支配される。つまり、《説明しない》ことこそが権力の行使であり、国民を無力化させる手法なのである。こうして国民は恐怖と不安から権力に従うようになる。なかには権力に忖度し、取り入る者が出て来る。こうした事例からも民主主義がいかに「説明すること」にかかっているかが判る。説明と情報公開が民主主義を支える命であり、それを破壊する手段は《説明しないこと》、《情報を秘匿する》ことなのである。
 たかが 6 人が任命されなかっただけで、ガリレオを持ち出すのは大げさであり、学者はそうした政治的な喧噪から離れて研究をしていれば、好いではないかと思う人がいるかもしれない。ましてや一部の学者の話であり、自分たちには何の関係もないと思っているかも知れない。しかし、科学分野の基礎研究の予算は削られ続ける一方で、軍事研究には潤沢な傾斜配分がなされる今の日本にあって、また軍事研究に手を染めない学術会議の方針を苦々しく思う自民党政権においては、杞憂で終わらないことを心得ておく必要がある。実際、すでに文科省は今月17日に行われる中曽根元首相の内閣・自民党合同葬義において弔旗を掲揚し、葬儀中に黙禱するよう、国立大学や都道府県教育委員会日本私立学校振興・共済事業団、公立学校共済組合などに通知を送っている。国民全体の奉仕者である公務員を、自民党のための奉仕者に変えようとする暴挙は許されない。かつて次のように臍をかんだマルティン・ニーメラーの轍を踏まないためである。 (文責:藤谷道夫

  ナチスが最初、共産主義者を攻撃した時、
  私は声を上げなかった。
  なぜなら私は共産主義者ではなかったから。
  社会民主主義者が牢獄に入れられた時、
  私は声を上げなかった。
  なぜなら私は社会民主主義者ではなかったから。
  彼らが労働組合員を攻撃した時、
  私は声を上げなかった。
  なぜなら私は労働組合員ではなかったから。
  ユダヤ人が連れ去られた時、
  私は声を上げなかった。
  なぜなら私はユダヤ人ではなかったから。
  そして彼らが私を攻撃した時、
  私のために声を上げてくれる者は誰一人残っていなかった。

 通常の娯楽に加えて、(古代)ローマ人の労苦に満ちた厳しい生活を陽気なものにしてくれるものに、凱旋式があった。(中略)民衆は大喜びで拍手喝采していた。だが、部下の兵士たちから将軍に向けて罵詈雑言を浴びせる習わしがあった。将軍の弱みや欠点、愚行の数々を公衆の面前であげつらうのである。将軍が高慢にものぼせ上って、自分を無誤謬の神(絶対に正しい偉い人間)だと思い込んだりしないようにするためである。例えば、カエサルには、部下たちがこう叫び立てていた。「禿げ頭の大将よ、他人の奥さんたちを物色してんじゃねぇぞ!あんたは商売女(淫売女たちで)で我慢してりゃいいんだ!」現代の独裁者たちに対しても同じように言うことができたならば、きっと民主主義にとって怖いものは何もなくなるだろう。
(Indro Montanelli, Storia di Roma, Rizzoli, Milano, 1969, pp. 141-142)

犬儒派キュニコス派)のディオゲネース(前400/4頃-325/3頃)は、世の中で最も素晴らしいものは何かと訊かれたとき、《何でも言えることだ(言論の自由parrhsi/a パッレーシア)》と答えた。」
~ディオゲネース・ラーエルティオス『ギリシャ哲学者列伝』69~




↓ よろしければクリックしていただけると大変励みになります。


社会・経済ランキング
にほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
にほんブログ村