宇野重規さんの書評
朝日新聞の11月14日付「好書好日」に宇野重規さんの書評がある。
宇野さんは、ご存じのとおり、日本学術会議の会員から外された6人の一人なのだが、メディアからコメントを求められても、意外なほど多くを語らなかった。それも人としての矜持の示し方だと思っていたが、今回の書評には、宇野さんが「語らないこと」の一端が垣間見えるように思われる。
「暴君」書評 無法で無能な統治者は自滅する
スティーブン・グリーンブラット著、河合祥一郎訳
『暴君 シェイクスピアの政治学』(岩波新書)
「混乱の時代に頭角を現し、最も卑しい本能に訴え、同時代人の深い不安を利用する人物」、それが暴君だ。「統治者としてふさわしくない指導者、危険なまでに衝動的で、邪悪なまでに狡猾(こうかつ)で、真実を踏みにじるような人物」であるにもかかわらず、国全体がそのような暴君の手に落ちてしまう。暴君はあからさまな嘘(うそ)をつくが、いくら反論されても押し通し、最後は人々もそれを受け入れてしまう。ナルシシストである暴君は法を憎み、法を破ることに喜びを感じる。
これは現代の話ではない。『マクベス』や『リア王』、『ジュリアス・シーザー』などの作品に登場する暴君たちの描写を分析する、シェイクスピア研究の世界的権威の著作の一節である。それなのに、本書を読むものは、どうにも生々しく感じられ、私たちの生きている現代世界を反映したものとしか思えないのではないか。
暴君が登場するのは権力の中心が空洞化する時代だ。党派争いが激化し、敵味方がはっきりするなか、「相手を倒す」ことが自己目的化する。結果として国は傾くが、その混沌(こんとん)こそ暴君が権力を掌握する舞台を準備する。代表制に不信を持った人々は、「同意を破棄し、借金もちゃらにし、現存の制度などぶっつぶしたほうがいい」と思うようになる。
しかしそのような暴君は権力の座につくと、途端に無能を示す。統治する国の展望はなく、自分が人々に嫌われていることを知っているだけに、周囲に猜疑(さいぎ)の目を向ける。そのような暴君が自滅していく姿を、シェイクスピアは繰り返し、冷徹に描き続けた。
暴君が勝利するように思える時代もある。が、最後は抑圧されても消えない人間的精神によって暴君は倒される。皆がまともさを回復する最良のチャンスは、普通の人々の政治活動にあるという結論が重い。今こそシェイクスピアを読み直すべきかもしれない。
宇野さんは、任命拒否問題については「私は日本の民主主義の可能性を信じることを、自らの学問的信条としています。その信条は今回の件によっていささかも揺らぎません。」とコメントしている。
(朝日新聞デジタル10月2日付 学術会議除外の宇野重規氏「日本の民主主義、信じる」 :朝日新聞デジタル )
こうした学者を外す理由を説明しない、説明できない政府、総理大臣。愚かだとつくづく思う。はやくこの国にも「まともさ」を回復させたいものだ。
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