ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

1940年と2020年の「新しい日常」

 2020年6月20日朝日新聞デジタルに「感染拡大せず「日本スゴイ」…80年前と重なる嫌な流れ」という記事がある。この中で、インタヴューに応じた大塚英志さんが、コロナ禍の現在と翼賛体制下の1940年代の類似性を指摘していて、共感しながら読んだ。「歴史は繰り返す」という言い方は自然法則のような響きがあり、この場合適切ではないが、為政者のもくろみは、今も80年前もさして変わらないし、いくらスマホやパソコンを操れても、人間の本性もそれほどの差はないというべきか。
 以下、部分的に引用してみる。(聞き手・田中聡子氏)

感染拡大せず「日本スゴイ」…80年前と重なる嫌な流れ:朝日新聞デジタル


――大塚さんは「新しい生活様式」が、戦時下の光景と重なると指摘しています。どこが重なるのですか。
 「何より、『日常』や『生活』という用語の氾濫(はんらん)ですよ。『日常』や『生活』は、戦時下に盛んに用いられた戦時用語なんですよ。例えば、日米開戦前後を境に新聞や雑誌にあふれるようになった記事が『日常』や『生活』に関するものでした。季節ごとの家庭菜園の野菜を使ってつくる『漬けもの暦』や、古くなった着物でふすまを飾る事例の紹介など、今では『ていねいな暮らし』とでも呼ばれそうなものが、競うように掲載されたのです。……
――手作りや時間をかけてつくった料理など「ていねいな暮らし」を大切にしよう、というのは、「すてきなこと」に見えますが。
 「一つひとつは、否定しようのない『すてきなこと』に見えます。しかしその目的はあくまで『戦時体制をつくる』ことです。タテマエは節約や工夫によって、物資不足に備えることですが、目的は人々に戦時体制という「新しい日常」に順化させることです。それを強力に推進したのが、大政翼賛会でした。『新生活体制』として、『日常』のつくり替えを説いたのです。『生活』や『日常』は、非政治的に見えて政治的なのです。軍国色がないから、政治的な批判もしにくい。しかし『生活新体制運動』は『生活』という基盤から、社会を戦時体制につくり替え、統制に人々を動員する、まさに政治的役割を果たしました」
 「『新しい生活様式』という言葉を聞いた時、僕はこの『新生活体制』を思い出し、とても不快でした。それは、言葉の上の類似だけでなく、日々報じられたニュースが奇妙に重なり合うからです。ホームセンターの家庭菜園コーナーが人気になったというニュースがありましたが、戦時下、奨励されたのは家庭菜園でした。東京都が断捨離の動画を配信しましたが、戦時中は不用品の整理を説く自治体もありました。あげればきりがありません。……
――「ていねいな暮らし」自体は、悪いことではありません。
 「一つ一つのいい、悪い、が問題ではありません。戦時下も今回も『政治』が人々の生活や日常全体を変えようとしていることが『正しくない』と言っているのです。政治やメディアが率先して、人々の『行動変容』『意識変容』を説く。政治が人をつくり替えようとしているわけです。その実現のために、『日常』のあり方や行動を規範としてあからさまに発信する。理屈をあれこれ言わず、行動による参加から統制を実現するのは、翼賛会以降の戦時下の動員の手法です。実際に生活の中で自ら何かをすることで、人は簡単に動員されます」
――外出できない日々をなんとか楽しもうとするなかで、断捨離や家庭菜園の情報は必要とされていたのではないですか。
 「戦時下の新聞の生活記事一つ一つは、『今日、明日、役に立つ情報』です。しかし、ピースの一つ一つが政治的に見えなくても、完成した『新しい日常』は新しい政治的現実、つまり、『新体制』と呼ばれた戦時体制です」
――私も「品薄の商品をどう手に入れよう」とか、「食事をどうしよう」とか、いつも以上に生活のことを考える日々でした。ただ、それは目の前のことに必死になっていただけなのですが……。
 「戦時の『新生活』も、実践の担い手の中心は女性でした。……そもそも『新生活体制』が説かれるのは1940年の翼賛会発足に合わせてです。翌年が日米開戦です。しかし、それより前、1937年の日中戦争をきっかけに行われたのが『自粛』です。対象になったのは、まずは『パーマネント』、それから女性が接客する『カフェ』でした。なんとなく女性の琴線に触れるものを、非常に巧みに自粛の対象に紛れ込ませた印象です。今回も、理美容院を休業要請の対象にすべきかという議論がありましたし、今は『夜の街』対策に熱心です。婦人会などによる自粛警察のような動きもありました。そうやって『自粛』は生活の自発的なつくり替えに向かい、そして『規制』は本格化します。今も、自粛に罰則を付す、つまり『規制』にする議論が始まっていますよね」
――感染予防のため、政府が生活の指針を示したことに安心し、歓迎する声もありました。
 「そもそも、コロナに限らず、これまでも『強いリーダーシップ』が政治家に求められてきたわけです。誰かに決めてもらって、自分はただ従いたい、というおよそ民主主義に相反する欲求です。今回は、そういうパフォーマンスを巧みに演出する自治体の首長らが、声の大きさや扇動のうまさで『やっている』ように見えてしまった。そこに喝采する人も少なくはなかった。けれど、こんなふうに『強い力に従うこと』になれてしまったこの社会の向かう先はいささか不安です」
――専門家に言われると、やはり説得力があります。
 「コロナ騒動で、専門家会議が冗舌に語ったのは『新しい生活様式』という学級会みたいな『きまり』でしかなく、専門家が専門の言葉を放棄して『ただの人』として発信していることが少なからずありました。そういう、科学という専門性の後退が実は今回起きた気がします」
 「例えば、日本の新型コロナによる死亡率が、欧米とくらべて低いことを『日本人の行動様式』や『日本文化』に帰結させる主張が盛んに語られはじめました。時にそれを専門家が語るのも側聞しました。東アジア圏にはもっと死亡率が低い国もあるのに、です。なるほど、『生活』や『日常』は文化の基盤のように思えますから、コロナ感染が悪化しなかったことは『日本スゴイ』的な精神論・文化論に飛躍しやすい。『ジャパンミラクル』といった国会議員がいましたが、コロナ文化論は、ほとんど『神風が吹いた』に近い次元に行きかけている。そもそも、自画自賛的な日本文化論など大抵、眉唾物(まゆつばもの)です」

――コロナに感染する恐怖を前にすると、自粛や新しい生活様式にはあらがいにくい雰囲気があるのも事実です。
 「コロナ禍が過ぎ去った時、自粛や新しい生活様式に、『あれは医学的根拠がなかった』とか、『やり過ぎ、無駄だった』という批判が出てくるでしょう。すでに散見します。そして、『あの時、だれがあんな馬鹿げたことを言ったのか』と『戦犯』探しが始まる。その時、『じゃあ、あなたは何で従ったのか』と問われたら、大抵の人が、『反対できる空気じゃなかったからね』と弁明するのでしょう。それは、かつて戦争に向かう『空気』に流され、沈黙し、戦後になされた弁明と同じじゃないですか?」
――では、どうすればいいのでしょうか。
 「違和感を感じるのなら、『いやだ』『気持ち悪い』って言えばいいんですよ。僕は『自粛』や『新しい生活様式』や、そこにへばりつく『正しさ』が気持ち悪いから、そう公言しています。けれど、その気持ち悪さを、『気持ち悪い』と言えないような社会が、もっと気持ち悪い。『言えない』時点で、おかしいわけです。疫病対策として最小限すべきことと、そのどさくさで政治が生活そのものを改めることは、『同じ』であってはならないはずです。どういう形であれ、個人の生活の中に公権力が侵入してきたら、『従うのはいやなんだよ』というのは、民主主義の基本でしょ」
……以下略。


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