ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

「自分の命を救う者」

 朝日新聞デジタルを見ていて、2つの記事が同じことを言っている感じがした。 

 1つめ。香港の周庭(アグネス・チョウ)さんの言葉。昨年6月、「逃亡犯条例」改定に抗議するため、デモ隊が香港の警察本部を包囲したが、これを「扇動」した公安条例違反で8月5日有罪判決を受けた。裁判所で記者会見した周さんは「香港国家安全維持法(国安法)のもと、とんでもない恐怖感が今、香港にあるが、自由と民主主義のために戦い続ける」と日本語で話した。

香港の周庭氏に有罪「自由と民主主義のため戦い続ける」:朝日新聞デジタル

 2つめは批評家の東浩紀さんへのインタヴュー。「自分が生き延びることだけを考える世界では、人は互いに分断され、連帯できなくなる。そこに権力(生権力)が入り込んでくる。しかし、人間は、ほかの人々とともに社会を作って生きている。決して、個体の生のみを至上の価値として生きている存在ではない。」と言う。部分引用を以下に。

コロナ禍の中で、権力は生に介入する 東浩紀さんの懸念:朝日新聞デジタル

 ――政府が緊急事態宣言を出したのは4月7日でした。その前日に東さんはツイートをしましたね。コロナ自体はペストやエボラ出血熱ほど危険ではないのだと注意喚起した上で、運よく犠牲にならずに済む人々には「社会を守っていく」という「責任」がある、との内容でした。
 「社会的活動は自粛すべきだという空気だったので、批判も浴びました。もちろん、たとえばウイルスで人口の1%すら死んでしまうとしたら大変な事態です。でも、残りの99%がその1%の死を無駄にしないよう自由で文化的な社会を次世代に受け継ぐことも大事なのでは、と思いました」
 ――コロナ危機の中で今回、イタリアの哲学者アガンベンは、生き延びること以外の価値を持たない社会になってしまっていいのかと問いかけています。欧州を中心に、反発を含めた大きな議論を呼びました。
 「アガンベンの指摘は妥当だと思います。主張の眼目は『ウイルス危機を口実にして権力の行使が強化されていることを警戒すべきだ』というものでした」
 ――アガンベンは、人間の「生」と権力との関係を分析した著書「ホモ・サケル」で知られていますね。いま、人々の意識は生命へと向かわざるを得ない状況にあります。国民の生命を政府が守ろうとするのは当然ではないでしょうか。
 「アガンベンは、人々の意識が『むき出しの生』だけに向けられている状況を批判しました。僕の理解では、むき出しの生とは『個体の生』のこと、自分一人の生命のことです。誰もが自らの『個体の生』に関心を集中させてしまった状態は、哲学で『生権力』と呼ばれる権力を招き入れます。生権力とは、人々の『生』に介入することで集団を効率的に管理・統治する権力のことです」
――人が自分の命だけを大事にすることを考えてはいけない理由とは何でしょう。
 「人が互いに分断され、連帯できなくなるからです。みんなが『個体の生』しか考えず、生き延びることだけを考える世界とは、ホッブズが言った『万人の万人に対する闘争』的な世界です。コロナ禍で見られた『買い占めパニック』のような状態ですね」
 「今回のような緊急事態が起きると、生権力が強く立ち上がり、こう呼びかけます。『お前たちにとって一番大事なのは個体の生き延びだろ?』と。しかし、それは幻想です。僕たちは実際には、ほかの人々とともに社会を作って生きているからです。人間は決して、個体の生のみを至上の価値として生きている存在ではありません。呼びかけに安易に耳を傾けてはいけないのです」
 ――命ではなく別の何かを大事にしろ、という話でしょうか。
 「違います。命とは個体の生を超えているものだと思います。一人ひとりはすぐに死んでしまう、はかない存在です。僕たちが生きているのは過去があったからだし、歴史の資産を未来に伝えていくことで流れができる。それが命と呼ばれてきたものではないでしょうか」
 「子供を作って、その子が自分の死後も生き続けることだけではありません。本を書いてその本が自分の死後も存在し続けることを望むこともあるし、他人のために働くこともあるでしょう」
 ――「個体の生」と「個体の生を超える生」の二つの理解があるということですか。
 「そうです。後者を大事に考えれば、社会を次世代に引き継ぐこともまた命を守ることだ、という考えに至るはずです。自由で文化的な社会を伝えていくこと。文化とはたとえば、愛する人の死を皆で集まって弔うことです」
 「人々の国際的な交流がなくなる。次世代の教育ができなくなる。劇場がつぶれる。大事にされてきたはずの価値に対し、社会が以前より鈍感にさせられつつあるとしたら、人々の意識が『個体の生』に集中させられているからではないか。アガンベンのような哲学者は今、そう問いかけているのだと、僕は理解しています」

 ふたつの話の“つなぎ”に、イエスの言葉を引用するのは適当ではないかもしれないが、別に「神の国」とか「永遠の命(魂)」とかいう話ではなく、人としての「名誉」ある生き方だと考えると、ここにも同じことが見える。
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架をになって、わたしに従いなさい。自分の命を救おうと望む者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、それを得る。たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったならば、なんの益になろうか。」(マタイによる福音書16章)

 たぶん1960・70年代くらいまでは、この国でも、今より良くも悪くも社会と連帯が緊密だったと思うが、80年代以降、 イギリスの首相だったマーガレット・サッチャーの言葉として知られる「社会なんてものはない。個人としての男がいて、個人としての女がいて、家族がある。ただそれだけだ。」式の“社会設計”が進んで両者が乖離していったと思う。でも、どんなにそういう状況が進んだとしても、人はパンやコメだけ食って生きてるわけではないのだということを、周さんと東さんに改めて問われた気がした。




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