ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

逃走と抵抗

 2月9日付朝日新聞に「現代の逃走論」という記事があり、ヨシダナギさん(フォトグラファー)、今井紀明さん(NPO法人「D×P」理事長)、浅田彰さん(批評家 大学教授)の3人の話が載っています。

 「逃げ」や「逃走」には否定的なニュアンスがついて回ります。一般に、壁に突き当たったら、逃げずに向き合うのが正道で、困難に出会って逃げてばかりでは人間がダメになるという観念は、建前上とはいえ、非常に強くあります。しかし、ここに出てくる三人は、世代の違いはありますが、三人とも、自分を失わずに生きていくためには、積極的か消極的かはともかく、「逃げ」という手段もありだと強調しています。特に、1983年に出した『構造と力』で一世を風靡し、『逃走論』の著作もある浅田さんは、次のように述べています。引用させてください。

逃げてもいい、その意思の先にある新しい私との出会い 現代の逃走論:朝日新聞デジタル

「逃走論」を発表したのは今から約40年前、1980年代のことです。70年代の思想課題をどうすれば清算できるか、を意識していました。
 それは全共闘世代の問題でした。連合赤軍事件のあと、左翼的な運動や思想は袋小路に入っていた。どうすればポジティブな方向に展開できるのか考えようとしたのです。
 連合赤軍の関係者は、革命を目指しながらも仲間内での悲惨な殺し合いに陥っていきました。そこには気になる傾向があった。自らの逃げ道をあえて断つことで、「革命家としての自分のアイデンティティー」を確固たるものにしようとしていたのです。
 「革命家をやめて就職することも選択肢に残しておこう」と考える学生はダメなやつとされ、逃げずにアイデンティティーを純化させることが大事にされた。僕には、それは戦略的に間違っていると思えました。陣地を捨てて逃げた方がいいのに、と。
 異なる人々と接触し、自分も変わっていくような生き方の方がいい。好き勝手な方向に逃げて、性的マイノリティーの人々や人種的マイノリティーの人々など様々な「他者」とかかわり、新しい自分に出会おうと提唱しました。旧来のアイデンティティーのくびきから逃れ、別の何者かになる可能性に賭ける行為を、逃走と呼んだのです。

 「逃走論」から10年もたたずに世界では冷戦が終わり、グローバルIT資本主義の時代が来ました。国境や職種を越えて逃走する1%のエリートが生まれた半面、望まぬ逃走者として膨大な人々が不安定化や難民化を強いられた。この両極化ぶりは、当時の僕の想定を超えるものでした。
 ただし「アイデンティティーへの固執をやめよう」というあのときの提唱自体の大事さは、むしろ当時より強まっていると思います。現在の重要課題は、アイデンティティー政治の問題だからです。
 代表例はトランプ前米大統領の支持者です。「自分たちは米国の主役だ」と思ってきた白人男性たちがグローバルIT資本主義下で落ちこぼれそうになり、アフリカ系の人々や女性などが活躍する状況に憎しみを抱いた。つまり、古いアイデンティティーに執着する人々の問題です。
 解毒が必要でしょう。白人男性というアイデンティティーに執着するより、新しい仕事に向けた教育を受けたり、趣味を生かして別のつながりを作ったりする方がいい。

 日本も例外ではありません。韓国の台頭や女性の社会進出に負の感情を抱き、「日本人」や「男性」といったアイデンティティーに閉じこもろうとする人々が、右派の台頭を支えているからです。
 アイデンティティーへの固執を解毒するための逃走は、今も必要なのでしょう。


 「逃走」の意義については、長年メキシコの先住民(インディオ)のオーラルヒストリーに取り組んできた歴史家の清水透さんもこう書いています。

 ……1982年5月に開催された日本西洋史学会のシンポジウム…の報告で僕が提起したのが、武力、逃亡、共生という抵抗の三類型です。…その背景には、大学闘争時代の先鋭たちによる武装闘争と、そことは一線を画しつづけた僕自身、そして、ノンポリ集団と一括された若者たちとの間で悩み続けた僕の過去がありました。理論では整理しきれない生々しい現実。国家権力やヘゲモニー集団に対する民衆の抵抗を、武力抵抗に限定してよいのか? 民衆の抵抗にはもっとさまざまな形態があるはずだ。…そして行き着いた…三類型の考え方は、基本的には今もかわりません。
……インディオの抵抗を武力的抵抗と限定するかぎり、結局は権力によって負けつづける民衆像を描く結果となる。…しかし、では戦闘に参加しなかった民衆は本当に抵抗しなかったのか? 抑圧という枠組みの中で生存の道を主体的に確保する、そうした被抑圧者、民衆のあり方にも、もっと目を向ける必要があると思うのです。
 逃げるということが果たして抵抗を意味するのか、素朴な疑問を抱かれるかもしれません。僕は冗談交じりで学生にこんなことを語ったことがあります。僕を大学から追放したいと思うなら、暴力的に授業妨害を延々とする。でも手はそれだけではありませんよね。今君たち全員が無言のまま席を立ち、この場からいなくなる。教室からの逃亡です。来週も再来週も、全員が欠席し教室には僕一人。黒板には毎週、「私たちはあなたを必要としていません。」と一言。実はこれ、学生時代の経験にもとづく実話です。講義中に今で言うセクハラ行為をくり返す非常勤の外国人教師を、クラス全員で示し合わせ、結局学期途中で辞めていただいたことがあったのです。
 ラテンアメリカの歴史の中で、逃亡という問題がどれほど白人社会を圧迫したか、あるいはその発展に歯止めをかけたか。…カリブ海インディオの「絶滅」にしても、逃亡が…一つの要因としてありました。征服されていない島へとインディオが逃げのびてゆく。…その結果、スペイン人が利用できる先住民はいなくなり、結局、ポルトガル人の奴隷商から高価な黒人奴隷を買わざるを得なくなるのです。
……輸入すれば奴隷もまた集団で逃亡し、…白人社会はあらためてその脅威にさらされるという悪循環に陥るのです。

             (清水『ラテンアメリカ五〇〇年』、119-126頁)

 「共生」という抵抗のあり方についても、清水さんは続けて、支配側の顔を立てながら換骨奪胎する民衆のしたたかさについて書いています。
 魂を抜かれなければ、抵抗のかたちはいろいろだと。だからこそ、逆に、(「彼ら」は)魂を抜くことに執着してくるのだと改めて考えさせられました。





↓ よろしければクリックしていただけると大変励みになります。


社会・経済ランキング
にほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
にほんブログ村