ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

続 「#検察庁法改正案に抗議します」

 「日本維新の会」という回りくどい“与党”がある。その所属議員たちの使い出のある振る舞いが助けになって、8日から衆院内閣委員会で「検察庁法改正案」が審議入りした。各界から反対意見が膨れ上がっているのにもかかわらず、週内の強行突破がもくろまれている。『女性自身』の配信記事によると、Twitterで反対の意見を上げた著名人に対する「中傷」が始まっているらしい。これも例の「広報」予算による「対策」の一環なのか。

「潰す」「干される」検察庁法改正反対の著名人への中傷続々 | 女性自身

 大阪府知事吉村洋文氏はその「日本維新の会」の副代表らしいが、今回の著名人ら多くの抗議の声に対して「僕はどんどん、声を上げていくべきだと思う」と発言し、今回の政府のやり方に批判的なのかと思ったら、そうではなかった(以下の、昨日配信の日刊スポーツの記事を参照)。

吉村知事、検察庁法改正案に「声を上げていくべき」 - 社会 : 日刊スポーツ

 この立ち居振る舞いもまた「使い出」たっぷりだ。吉村氏は、検察トップの人事権がだれにあるのか、突き詰めて考えなければならない。それが議論の「本質」だと言うのだ。
 「検察庁法で人事権は内閣にあると決められている。なぜか? 検察組織は強大な国家権力を持っている。強大な国家権力を持つ人事権をだれが持つべきなのかを本質的に考えなければいけない。僕は選挙で選ばれた代表である国会議員で構成される政府が最終的な人事権を持つのが、むしろ健全だと思う」。「もし検察組織が独善になったとき、だれがそれを抑えるのか。だれも抑えられない。最終的には人事権を持っている人でないと抑えられない」。「反対する人は検察トップの人事権はどこがいいのかという問いに答えなければいけないと思う」。「検察官の捜査権限は政府だけではなく、国民にも向けられる。内閣が人事権を持っている以上、黒川さんがどういう方かは存じませんが、その方が適任だと考えたら、その人を検事総長にさせるのは筋ではないかと思う」。

 「本質」などという語はカタカナ語と同じでこの国ではトリックの常套句である。こういう回りくどい「擁護」をする人は、公平中立でひと味ちがう見方をしているかのようにしゃべるが、要するに内閣が黒川弘務氏を検察トップに据えることに問題はないと言っている。しかし、内閣が判断することが何でもOKだったら、それは民主主義の国家ではない。閣議決定の乱発で今や見る影もなくなったが、それでも内閣の決定には一定のルールがついて回ることくらい、法学部出身の吉村氏が知らないはずがない。

 3つだけ述べたいと思う。 
1)検察トップの人事権をどこがもつのがよいかなど全く議論の「本質」ではない。問題があるなら(内閣か、国会か、意見が割れるというなら)今のコロナ禍が落着した後、じっくり議論すればいいだけのことで、まさに“不要不急”の議論だ。
2)問題は、内閣は決められたルールを守って検察トップの人事権を行使しなければならないのに、ルールに違反した上に、後からそのルールを都合よく変えようとしていること。ルールに違反する者にルールの変更を認めるのは、泥棒に刑法を変えていいと言ってるようなものだ。
3)百歩譲って、万が一、ルール(制度)を変更する必要があれば、十分な審議とその時間が確保されなければならない。にもかかわらず、法務大臣が出席しない異常な方法で短時間で採決だけ強行しようとするのは、今の「国難」にあって優先すべき事柄を完全に取り違えている。“火事場泥棒”と言われて当然である。


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