ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

「ガッツと気迫で頑張ってくれ」

 「7月末までに高齢者のワクチン接種を終わらせろ」と、総務省をつかって市町村にワクチン接種の檄を飛ばすスガ首相。武田総務大臣名で自治体首長宛てに緊急要請のメールまで出している。
 そのメール(要請文)、
 「……災害や感染症の対応など、御心労の多い日々かと存じます。くれぐれも、ご自愛くださいませ。
と結ばれているが、
心労」のタネを増やしているのは、あなたたちですから!

 「俺が7月と言ったんだから、何が何でも7月に終わらせろ!」—— “裸の王様” をめぐるこの大混乱を、5月3日付「AERAdot.」が伝えている(今西憲之氏 AERAdot.取材班による)。部分引用を許されたい。

【独自】「7月末までに高齢者ワクチン接種完了は無理」全国の地方自治体の6割回答 菅首相の指示で混乱 (1/3) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)

「これまでワクチン接種は、田村厚生労働相や河野ワクチン担当大臣が中心だった。しかし、スピードが遅く、なかなか進まない。菅首相の“ポチ”と言われる武田大臣が呼ばれ、『とにかくワクチンを打ちまくれ』『何とかしろ』と厳命されたので、あたふたしています」(総務省関係者)

……しかし、現実は厳しい。厚労省が4月末、全国の地方自治体に内々で調査したところ、1741の市町村のうち6割以上の1100の自治体が「7月中に高齢者のワクチン接種完了はできない」と回答している
 主な理由は「ワクチンが国から届かない」「予約を受け付けると瞬殺で埋まってしまい、現場が大混乱」などなど…。
「市町村はワクチン接種の担当者だけでは手が足りず、他の部署から急遽応援を求めて、クレーム処理にあたっているそうです」(厚労省関係者)

(※下線は当方が施した)

兵庫県明石市泉房穂市長がAERAdot.の取材にこう語った。
明石市にはワクチンが1箱だけ届きました。接種できるのは300人くらいです。それで予約を受け付けると殺到して、現場が大変。十分なワクチンを供給できないのは、国、菅首相の責任です。これで何とかやってほしいというのは、無責任すぎる。ワクチンが届かないのですから、7月末に高齢者の接種が完了なんて、できるわけないわ」

 AERAdot.で既報したたように、菅首相の命令を達成しようと武田総務相が全国の知事や市町村長に直接、メールを送って「7月末に終わらせるように」と訴えている。総務省関係者がこう明かす。
厚労省調査に対し、『7月中には終わらない』と回答した市町村にはローラー作戦で電話をかけまくり、カネ(財源措置)というニンジンにぶら下げながら、『7月中に接種が終わるような接種計画だけでも作ってくれ』、そして7月中は無理という回答だけでも『撤回・修正してくれ』という上意下達の指示を出しています。都道府県の副知事や市町村の幹部に直談判しようと、出向している官僚をリストアップ。官邸の意向がダイレクトに伝わるよう訴えています」

 しかし、自治体からは『ワクチンが足りていない』『ワクチンが届く日程をわからないと、間に合うとは断言できない』『ワクチンが来ても医療従事者が確保できるか』など前向きな回答が得られない状況が続く。
 九州地方の市長はAERAdot.の取材に対し、総務省のローラ作戦を認めた上で、呆れながらこう明かした。
総務省から何度か連絡がきています。菅首相が7月末と国民に約束したから至上命題と言ってきた。しかし、ワクチンは届きません。うちのような田舎町だと、医療従事者の確保もそう簡単に確保できません。そこを説明すると、ガッツと気迫で頑張ってくれと精神論のようなことを担当者は言っていました。連休明けには7月末にできるか、回答してくれと言っていたが、要は連休も働けと強要しているようなもの。ワクチンも届かない状態でどうしろと言うのか。官僚ってどうしてこんなバカなことを言うんですかね。ガッツと気迫でコロナを克服できるわけありません」

(※赤字は当方が施した)

中には「ワクチンを保存するフリーザーが確保できない」「ワクチン接種の案内状の印刷費用の予算をつけてほしい」「ワクチン接種のインターネットのウェブ予約がシステム障害で電話対応しかできない」などと訴えている自治体もある。
 ワクチンが届いても冷蔵保存できる設備がなければ、接種どころではないし、接種案内を印刷する予算がなく、ウェブ予約のシステムが故障すれば、大混乱することは必至。
「人手不足で医師の確保が難しく、週末は接種できない。接種完了は早くて8月末」と回答する自治体が大半を占めるなど、菅首相の掛け声とは真逆のお寒い状況となっているのだ。

 菅首相総務大臣経験者で、自身の長男も総務省幹部との「口利き」接待に同席していたほど密接な関係にある。いわば、菅首相の「ホームグラウンド」だ。
菅首相は今や官邸で『裸の王様』状態。自分が直々に指示したんだから7月末までに高齢者接種は可能と思い込んでいる。コロナ感染拡大が収まらなくても、ワクチン接種が進めば、緊急事態宣言の早期解除と東京五輪開催の両立は可能と本気で考えているようです」(政府関係者)

 自民党幹部はそんな菅首相をこう突き放す。
菅首相の支持率低下の要因は、ワクチン接種が進まないことが大きい。感染拡大が収まらず、ワクチン接種がダメなら、東京五輪パラリンピックも中止か、無観客など縮小するしかない。そうなると、菅首相に次の目はなく、自民党総裁選の出馬すらできないだろう。菅首相は自前の派閥がなく、無派閥の親しい議員を束ねることで一定の結束をはかってきた。しかし、支持率低下などで無派閥の議員らも菅首相から離れつつあります。その焦りから総務省を使って、ワクチン接種を早めようと賭けに出た。7月末と期限を切ったことで、達成できなかったら、公約が守れなかったと退陣もあり得る」

 その一方、今日(5月4日付)の「御用新聞」は、4月28日時点で全体の約6割にあたる1,000を超える自治体で、高齢者向けのワクチン接種が政府目標の7月末までに完了する見通しだと伝える。

自治体6割、高齢者接種を7月までに完了…政府見通し「さらに増える」 : 医療・健康 : 読売新聞オンライン


 65歳以上の高齢者人口は、3,617万人(2020年9月時点)。すでに接種を受けた人も若干いるが、7月末までに2回の接種を完了するには、あと80日余のうちに全国で1日当たり80万回超の接種が必要となる。休みなくやったらという話だから、感覚的?には1日たぶん100万回くらい。そんな規模に対応するスタッフを全国でそろえるのは無理だろう。そもそも肝心のワクチンがまだそろっていないのだ。
 うちにも市から「新型コロナワクチン接種券 在中」なる封書が届いているが、「予約はまだできません」(電話するな?)と書いてある。

 Twitter
「ウチらの首相、原稿の朗読ぶりから国語が苦手なのは知ってたけども、……どうやら算数も苦手のようで」
(https://twitter.com/buu34/status/1388739529142530053)
というのがあった。

 朝からため息が出る。



↓ よろしければクリックしていただけると大変励みになります。


社会・経済ランキング
にほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
にほんブログ村

山本太郎のゲリラ街宣

 5月3日 憲法記念日
 日本国憲法には、国民の「生命・自由・幸福追求の権利」(第13条)や「生存権」(第25条)の保障の条文がある。法律の専門家にしかわからない話ではないはずだが、「法は(お上に)従うもの」という肌感覚だけが刷り込まれているので、一人ひとりが幸福に生きる(普通に生活する)権利を保障されているという話が、日常ではどこか高尚で根無し草に響いてしまうことがあり、「周りの空気を読め」みたいな雰囲気に押し流されていくと嫌なものを感じる。
 しかし、一年以上も続くコロナ禍に、家にいろ、営業するな、で生活の糧自体を得られなくなっている人は数多い。外国の状況を見るにつけ、もし、国がちがったら、コロナ感染前の日常をすでに取り戻せていたかも知れないと思うと、日本政府の失政(責任)は重大だ。あらためて、政府は憲法・第13条と第25条を守れ!と思う。

<第13条 個人の尊重・幸福追求権・公共の福祉>
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
<第25条 生存権、国の社会的使命>
1 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。


 しかし、コロナ禍と生活の悪化を直結させるのは短絡的で誤っているかもしれない。コロナの前からすでにあった生活難がコロナの直撃を受けたととらえるべきなのだろう。これはれいわ新撰組山本太郎さんらがずっと言い続けていることでもある。

 5月2日付『長周新聞』が山本太郎さんの九州ゲリラ街宣の模様を伝えていて興味深かった。4月24日、JR小倉駅前の街頭演説を紹介した記事から部分引用する。

れいわ新選組・山本太郎が九州でゲリラ街宣 コロナ禍で進行する「火事場泥棒」に警鐘 | 長周新聞


 ……コロナが来たからみんなが困っているのではない。コロナが来る前から多くの方々は非常にしんどい状況があった。
 コロナ禍以前に日銀が調べた貯蓄ゼロの世帯別割合を見てみたい。これには、今銀行にお金が入っているが月末にはなくなってしまうという人も含む。20歳代では61%、30歳代では40・4%、40歳代は45・9%、50歳代でも43%だ。ひどい状況だ。
 この背景に高度経済成長やバブルというものがあるのなら、まだ逆転のチャンスはある。高度成長期に青春時代を送ったというお父さん、お母さんは自分が20代のときに貯蓄ゼロなんて普通だったという方もおられるが、今この貯蓄ゼロ世帯の背景には何もない。断崖絶壁しかない。今後経済が好転する気配もない。このまま高齢化したときに、国が何かしら手立てを打つのかといえば、残念ながら打たない。
 なぜか? このような状態にさせてしまった政治家たちはその頃には引退している。洪水がやってくるのは、その人たちがいなくなった後という話だ。こんな無責任な話はない。
 とくに経済的失敗であるデフレ――世の中にお金が回っていないときに消費税をどんどん上げていくという間違った政策をうち続けた。そればかりか労働環境も破壊し、安定した職業がどんどん不安定化した。いまや非正規雇用は四割をこえている。このように労働環境と税金のとり方を歪めていった結果、若い人が蓄財できるような余裕はなくなった。誤った政策によって人生が歪められた被害者たちに対して、今政治がなにができるかを考えなければならない。今20~50代の人たちが高齢化していったときにどうやって支えるのか? 現状ではのたれ死にだ。一発逆転できる人が何人いるだろうか。
 今やるべきは積極財政しかない。このような状況に陥ったのは、国から人々に対する財政出動を絞り続けてきたからだ。将来世代に対する投資を絞っている。だから教育でも、大学に行くのに多額の借金を背負わされ、自己責任化されている。公共事業に関しても、橋本龍太郎の時代から小泉の時代までの間に10年間で投資額は半分に減らされた。あらゆる分野に対して蛇口を絞り続けた結果、世の中にお金が回らない状態になった。それが何十年も続けられて消費税も上げ、いろんなことが複合的に絡み合えば当然社会は荒廃する。あまりにも無責任だ。
 徹底した財政出動でなにをやるか。大学や大学院に通うために借りた奨学金をチャラにすればいい。国家財政における9兆円でできる。現在は大学に行くために借金を背負い続けて、卒業する頃には数百万円の借金、大学院を出る頃には1000万円の借金を背負わされた若者たちに、細々と生活しながらそれを返済していくことを強制している。大学生の2人に1人だ。そのような状況から一刻も早く解放してあげることがなによりも重要だ。
 大学生に多額の借金を負わせたうえに利息までとるようになったのは、小泉政権時代の産物だ。大学生の2人に1人が奨学金のシステムを利用し、そのうち6~7割は有利子タイプだ。それによって年間に3百数十億円という利息が生まれ、それが一部の企業に対するインセンティブ(経済的刺激)になる。さらにそれをとり立てるサービサー(債権管理回収業)のような仕事にも波及していくわけだ。企業側に対して仕事を差し上げるために若い世代たちを犠牲にして金融商品にしてきた。この国の未来である若者たちを金融商品化してしまうような国は滅びる。人の命に対して、人生に対してなんのリスペクト(尊敬)もない。すべてカネや票と交換し続けてきた日本社会は当然荒廃していく。
 貯蓄ゼロが多い若年世代から中年世代を下支えすることは国の義務であり、学校教育を受けるための借金を9兆円でチャラにできるのなら、した方がいいに決まっている。財源はある。
 それだけではない。安い家賃で住める家を保障することも重要だ。少子化を問題にしながら、それに対する効果的な施策は何一つやっていない。効果的な施策とは、教育に対する本人や家族の負担を減らすこと、低廉な家賃で一人暮らしができる住宅を作ったり借り上げていくこと、そして収入が低い人に対して補填をすることだ。
 この三つを前に進めた欧州などの国では、出生率が回復しつつあるという報告もある。やるべきことははっきりしている。将来世代が高齢化したときに地獄のような世の中が展開されないように、最低限それをやらなければならない。
 年金がなくなるという話も出たが、年金制度は破綻しないが、もらえる額が減らされる。制度設計を見ても、現役世代が高齢者を支えるという形になっている。だから現役世代がどんどん減っていくような少子化は絶対に防がなければならない。すでに1970年からこの国は少子化に陥る恐れがあるとずっと警鐘が鳴らされてきた。大阪万博の年から警告されてきたのに現在は完全なる少子化だ。政治が機能していないのだ。
 「少子化国難」という問題意識を抱えているのなら、一番にやらなければならなかったのは先述の三つの施策だ。ベビーブーム生まれの人たちに対して集中的にやらなければいけなかった。なぜなら人口のボリュームが一番多く、その後にもベビーブームを起こせるような状況を国として作らなければならないからだ。だが、その頃から国は蛇口を絞ってお金を出さず、すべてを自己責任化していった。
 ロストジェネレーション(失われた世代)が生まれるような状況を放置し続けた。97年に消費税は5%に増税され、アジア通貨危機もあいまってこの国は本格的デフレに踏み込んだ。そこから25年ずっとデフレ。政治が間抜けなこと以外に理由がない。やるべきことはやらず、目の前のお金だけ。自分が議員になりさえすればいい。そのためにずっとこの国を食い潰してきた。
 だからこそ今やらなければいけない。この国のオーナーは皆さんだ。政治家は雇われの期間限定の身だ。それを選ぶのは誰かといえばオーナーである皆さんだ。どれだけ金持ちでもワーキングプアでも、持っている票は一票。金持ちはうまく票をまとめ、それを組織票にして、自分たちの利害を叶えてくれる人たちを議員にしていった。一方で人々の方は50%が票を捨てているのが現状。これでは社会は好きなように破壊され続ける。
 労働環境を破壊して非正規労働者を最大限まで増やした後は、外国人労働者がより大量に入ってくることが可能な入管法の改正を2018年に通過させた。国内の労働環境がこれ以上破壊できないと見込んだら海外からそういった勢力を大量に入れるようにしてさらに安い労働力を作っていくようなことを政治が進めた。それは、組織票と企業献金で固めに入っている人たちの利害に叶うことをするためだ。首が絞まりながらも、この国のオーナーであることを忘れ、票を捨ててしまっている。みなさんが圧倒的多数派なのだということを忘れてはいけない。

<中略>

……全人口のうちコロナウイルスに感染するのはごく少数だから、ほとんどの人が自分事として考えられない。それは当然のことだ。ウイルスを持っている人たちがちゃんと捕捉され、保護されることが実現できるのならば、社会はちゃんと回せるはずだ。日本と同じ天然のバリアを持つ島国のニュージーランドや台湾では、もうノーマスクを実現している。ノーソーシャルディスタンスで1万人規模の音楽フェスティバルを全国で実施しているような状況だ。日本とは大きく違う。
 それは対策が違うからだ。検査を絞るのか、検査を拡大するのか。検査を拡大しないと多くの人口のなかで一握りの無症状・軽症者は見つからない。見つからなければ捕捉できず、くすぶり続けるしかない。その数が多くなったときに緊急事態を宣言して“一旦閉じましょう”といい、数が減ってきたら“また開きましょう”。開いた時点ですでに違う変異株が存在していて、それが一気に広がって行く――のくり返し。これを何年続けるのか? という話だ。テレビでもその話ばかりで気が滅入る。
 こういった状況を誰が作っているのかといえば、ちゃんとした施策を打ってこなかった政治だ。今からでもやればいい。徹底的にやればいい方法がある。全人口のうち一握りのコロナ感染者をしっかりと捕捉・保護し、経済的にもしっかり支えてあげる。ボーナスも出るという形にするのもいいのではないか。現状ではコロナの疑いというだけで人にはいえない。口に出せば下手したら村八分。これでは収まらない。
 中国などでは、熱があってPCR検査を受けにきた人にはお金を渡している。賢い。患者が向こうから来てくれる。そして、昨年は連休の時期に外に出ない人たちにクーポン券やお金を渡す。これも賢い。GoToキャンペーンとは真逆だ。その結果、もう日常をとり戻している。つくづく真逆のことをやっているのが日本だ。大胆な緊急事態と大胆なお金の給付がセットでおこなわれていたなら、ニュージーランドや台湾と同じく去年のうちに終わっている。今頃はノーマスク、ノーソーシャルディスタンスだ。
 島国なのに水際対策(出入国制限)もザル、国内の検査も絞っていくのならいつまでも続くのは当たり前の話だ。
 1日当たりの最大検査能力をみても、イギリスでは78万2000件。中国は2401万件。人口も多くレベルが違う。日本はたった17万5200件だ。そして1日の最大検査能力が17万件あっても、これまでの実績で最多の日でも6万件程度だ。検査能力も1日当たりの検査数ももっと増やさなければならない。
 例えば、東京都では1日当たりの最大検査能力は6万6000件。これにはPCR検査だけでなく抗体検査も含まれる。ところが実績としての最多検査数は1日あたり1万1500件程度だ。日本は陽性者が少ないというが、検査をしていないから当然だ。コロナに罹患している人は一握りなのだから、この人たちを経済的にも保護し、その期間しっかりと医療が受けられる状況を整えれば、それ以外の人たちは社会活動を再開できる。
 コロナの収束について失敗し続けている大阪を見ても、緊急事態宣言を早めに終わらせた結果、医療の逼迫どころか医療崩壊だ。手術の延期や、救急車に乗せられて何時間も受け入れを求めてウロウロさせられる事態が起きてしまっている。なのに、失敗したトップがテレビに出続ける。本来なら全国の自治体のなかでもコロナをしっかり抑え込んでいると評価されているような自治体トップがテレビで教訓や必要な施策について伝えなければいけないはずだ。それが、もう次の選挙に照準が変わって、選挙に向けて露出を高めていくために、今大阪の首長をテレビに出し続けているのだ。

<中略>

こんな状況を誰が作ったのかといえば政治だ。その政治を作ったのは誰かといえば、こういった政治を放置し続けた私自身だ。政治に興味が持てず、自分の人生で精一杯で、自分の人生が充実しているかどうかだけがメインテーマだった。それが、原発事故を境にして世の中の異常さに気付き、地獄のような社会になっているのなら、なんとかしなければならないと思った。私のように極端に考え方が変わった人は少ないかもしれないが、そこからが始まりだ。知ってしまえばやるしかない。
 でも私たちだけではできない。この国のオーナーであるあなたの力を借りなければ、命に対する価値が低すぎる国、人間が部品みたいに壊されることもよしとされる国、働き方改革という名の下に残業時間月80時間も認められるような国の状況は変えられない。
 命に価値がない国だからこそ、絶望を感じて年2万人以上の人が自分で命を絶ち、命に対して尊厳がない国だからこそ毎年50万人もの人が自殺未遂に追い詰められる。
 この状況で孫の世代にバトンタッチできない。次世代に対してまともな社会をバトンタッチするためには、今この世に生きる、今の時点で生活されている皆さんに対して人間の尊厳が守られるような社会を作らなければいけない。あなたの力は1億数千万分の1ではない。あなたが政治から体を離した瞬間に好き放題やられる。

<以下略>

 アトキンソンの中小企業「淘汰」の話とか、原発汚染水の海洋放出とか、他にもいろいろと深刻な話をしていたが割愛する。

 日本国憲法・第12条にも、山本さんが言っていることと同じことが書いてあった。
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない




↓ よろしければクリックしていただけると大変励みになります。


社会・経済ランキング
にほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
にほんブログ村

「余計なこと」を考える

 元ラグビー日本代表でスポーツ教育学や運動学を専門とされている平尾剛(つよし)さんはアスリートの立場から東京五輪開催に異議を唱えてきた。4月18日更新の記事でもこう述べている。引用をお許し願いたい。

スポーツ、これからどうなる? | みんなのミシマガジン

今、日本では聖火リレーが行われている。新型コロナウイルスの感染が広がる前の2017年から東京オリンピックパラリンピック(以下、東京五輪)の返上を訴えてきた僕は、いたたまれない気持ちになる。列をなすスポンサー車両には開いた口が塞がらないし、なによりランナーや沿道に駆けつけた人たちが浮かべる屈託のない笑顔を、心穏やかに見ることができない。
 本当にこのまま開催してよいのだろうか。
 思い起こせば東京五輪をめぐっては今日に至るまでさまざまな問題が生じている。
 IOC総会での「アンダーコントロール」(汚染水は完全に制御できているという意)という虚偽発言、招致のために票を買ったとされる裏金問題、エンブレム選考に関する騒動、建前だけの「復興五輪」や「アスリートファースト」、記憶に新しいところでは元組織委員会会長の女性蔑視発言や開閉会式を演出する組織人事のゴタゴタなど、ざっと振り返るだけでもこれだけある。
 スポーツに求められるものは、なによりも「公正さ」である。そのスポーツの祭典であるはずの五輪が、まったくもって公正ではないというのはなんという皮肉だろう。

<略>
 東京五輪は……公正さそのものを破壊しつつある。このパンデミックの最中であっても開催を強行する姿勢に、それが現れている。国民の健康よりも金銭や名誉や権力を優先するのは、本末転倒も甚だしい。ほんの一握りの人たちの「夢」や「希望」を叶えるために、なぜ大多数の健康が脅かされなければならないのだろう。経済活動の停滞によって職を失い、生活がままならなくなった人を差し置いてまで開催する意義があるのか。医療従事者にさらなる負担をかけることにうしろめたさはないのだろうか。
<略>
 スポーツ関係者と話をすると、ほとんどの人はまるで腫れ物に触るように東京五輪の話題を避けた。話題がふと東京五輪に移りそうになればスッと話を変える。この話題を逸らす仕草にふれるたびに感じた寂しさは今でも忘れない。
 議論を戦わせてもいいから真正面から話をしたい。スポーツに関わる者同士で今こそきちんと語り合おう。こっちとしてはその用意ができているのに、なぜ話をしようとしないんだ。
 もどかしかった。自らの主張がかき消されてゆくようで、虚しかった。
 ときに「不都合なことは見えないフリをして、それでいいのか?」と、苛立つこともあった。擁護してくれる人はいたものの、そのほとんどはジャーナリストやスポーツ以外の研究者で、スポーツ分野の当事者と名乗れる人は皆無だった。それが歯痒かった。
 あのころを振り返れば、東京五輪を否定的に捉える意見が多数を占める現在の趨勢は、隔世の感すらある。
……
 今、世間は「オリンピック幻想」から醒めつつある。新型コロナウイルスの蔓延が東京五輪を覆っていたベールを剥ぎ取り、多くの人がその実態に気づき始めている。肥大化したオリンピックの存在に、ようやく懐疑的なまなざしが向けられるようになった。コロナ禍で生活が限定されるなか、なぜスポーツの祭典であるオリンピックだけが「特別扱い」されるのか。そうした疑問を投げかける人が、長らく続く自粛生活への不満とともに増えてきているように思われる。
 それにともなって、スポーツそのものの価値もゆっくりと、でも確実に下落しはじめている。その気配を感じた水泳の萩野公介選手は、五輪組織委員会元会長である森喜朗氏の女性蔑視発言を批判した上で、「アスリートが一番、スポーツの価値を考えていかないといけない」と選手のあり方について持論を展開している。
 アスリートのみならず、関係者すべてがスポーツの価値を考え直す必要があると僕は思う。
 もし東京五輪が強行開催されればスポーツに対する世論の目はさらに厳しくなるだろう。たとえ開催が中止されたとしても、これまでの騒動がもたらしたスポーツに対する懐疑のまなざしは、そうかんたんには解消されないはずだ。今の情況をただ静観すれば、もしかすると50年後には「スポーツなんてやってんの? めずらしいねえ」という人が出てくるかもしれない。大げさに思われるかもしれないが、それほどの危機感が僕にはある。

<以下略>
 
 平尾さんは5月1日には、以下のようにTweetしている。これも引用をお許し願いたい。

https://twitter.com/rao_rug/status/1388415062163873793

余計なことを考えずに競技に集中すればいい。おそらくほとんどの指導者は選手にそう話しているだろう。感受性が強い選手は、社会の動向を感知しつつもこの言葉にすがり、不安や困惑を抱え込んでいると想像する。
10代の頃から競技に集中してきた選手のほとんどは、僕もそうだったけど、社会の仕組みを知るための基礎知識が欠如している。だから五輪をめぐる今の現状をどう判断したらいいのかわからない。スポーツしかしてこなかったら、畢竟そうなる。
でもね、今は知識がないからどうしていいかわからないなどと言っている場合ではありません。わからないながらも、ふと感じることや考えたことを大切に、自分がどうしたいかどうすべきを発信すべきだと僕は思います。
五輪ってなんだったのか。自分にとって、社会にとってスポーツってなんなのかを、この機会にじっくり考えて欲しい。今、当事者としての責任を果たさないと、大変な事態を招きかねません。
選手からの発信を促すべく、まずはOBや指導者など元アスリートが声を上げませんか。IOC組織委員会や政府のずさんな対応をみて、それでも五輪をやるべきだと本当に思ってますか?

 「余計なことを考えずに競技に集中すればいい」——テレビに出演していたある五輪メダリストも「やると決まったら、つべこべ言わずにやる。アスリートにはそういうところがあります。」と言っていた。しかし、わき目をふらず、目標に向けて邁進することをよしとするこの「美徳」はアスリートに限った話ではない。「とりあえず今自分ができることをやろう」と、病院の医師も、看護師も、学校の教師も、役所の職員も、飲食店の店主も、……、その他諸々、みんなそう思ってこのコロナ禍で働き暮らしている。一般の人には実際上も、そう思うしかないのだ。

 では、市井の人々にはどうにもできない「余計なこと」を考え、決める(はずの)立場にいる人々はどうなのか?
 組織委の遠藤利明副会長は5月1日のテレビ番組で「日本の状況や対応を考えれば十分開催できると思って取り組んでいる」「(中止する場合の判断期限や中止の可能性について)考えていない」と言っている。
 その3日前、橋本聖子・組織委会長の方は、「開催をすることは合意しましたが、安心安全な大会開催に向けてどのように行うかを考えていきたい」と話した。
 スガ首相は、「IOC国際オリンピック委員会)は、東京大会を開催することをすでに決定しています」(23日)、「(組織委が要旨した看護師約500人の確保について)休んでいる方もたくさんいると聞いている。可能だと考えている」「(医療関係者の反発があることについて)そうした声があることは承知している。支障がないように全力を尽くしていきたい」(30日)と言った。
 IOCのバッハ会長にいたっては、「歴史を通して、日本国民は不屈の精神を示してきました。逆境を乗り越えてきた能力が日本国民にあるからこそ、この難しい状況での五輪は可能になります。」(28日)だ。
(※訳はHUFFPOST:日本国民は「五輪も乗り越える」バッハ会長の“発言”に批判噴出 ⇒ 実際はこう言っていた | ハフポスト
「バッハも休み休み言え!」(のら猫 寛兵衛さん)
のら猫 寛兵衛:SSブログ

 当事者である(はずの)人々にとっても、「余計なことを考えずに」とにかくやろう、全力を尽くそう、だって、そうするよりしかたないじゃないか……式の発想(習慣)は同じように見える。五輪列車は突っ走っているが、運転席には誰も座っていないのだ。

 「余計なこと」は実は「余計」ではなく、一人ひとりの人生にかかわる大切なことだ。前回の「政治的なこと」も同じだと思うが、それを「余計なこと」に仕分けし、思考停止するよう調教されてきた結果、たとえば自分がコロナに感染して生命の危険を感じるとか、営業停止や時間短縮などを繰り返されて生活の糧を失うとか、身辺にそういう人がいるとか、当事者(近親者)として「存亡の危機」に直面するようなことでもない限り、他人事だから知らない、想像しない、自己責任だ、で済ませるよう、感覚を麻痺させられてきた。

 平尾さんの問題提起を真摯に受けとめるアスリートが増え、市民の間に理解や支援が広がることを願う。実務的に言って、五輪開催は無理だと思うが、何もしないで寝ていて中止が決まるわけではない。今は、「余計なこと」をあえて考え、「余計なこと」をあえてする人が増えることが大切になっている。そういうつながりを広げていく一助になればと思う。




↓ よろしければクリックしていただけると大変励みになります。


社会・経済ランキング
にほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
にほんブログ村