ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

「余計なこと」を考える

 元ラグビー日本代表でスポーツ教育学や運動学を専門とされている平尾剛(つよし)さんはアスリートの立場から東京五輪開催に異議を唱えてきた。4月18日更新の記事でもこう述べている。引用をお許し願いたい。

スポーツ、これからどうなる? | みんなのミシマガジン

今、日本では聖火リレーが行われている。新型コロナウイルスの感染が広がる前の2017年から東京オリンピックパラリンピック(以下、東京五輪)の返上を訴えてきた僕は、いたたまれない気持ちになる。列をなすスポンサー車両には開いた口が塞がらないし、なによりランナーや沿道に駆けつけた人たちが浮かべる屈託のない笑顔を、心穏やかに見ることができない。
 本当にこのまま開催してよいのだろうか。
 思い起こせば東京五輪をめぐっては今日に至るまでさまざまな問題が生じている。
 IOC総会での「アンダーコントロール」(汚染水は完全に制御できているという意)という虚偽発言、招致のために票を買ったとされる裏金問題、エンブレム選考に関する騒動、建前だけの「復興五輪」や「アスリートファースト」、記憶に新しいところでは元組織委員会会長の女性蔑視発言や開閉会式を演出する組織人事のゴタゴタなど、ざっと振り返るだけでもこれだけある。
 スポーツに求められるものは、なによりも「公正さ」である。そのスポーツの祭典であるはずの五輪が、まったくもって公正ではないというのはなんという皮肉だろう。

<略>
 東京五輪は……公正さそのものを破壊しつつある。このパンデミックの最中であっても開催を強行する姿勢に、それが現れている。国民の健康よりも金銭や名誉や権力を優先するのは、本末転倒も甚だしい。ほんの一握りの人たちの「夢」や「希望」を叶えるために、なぜ大多数の健康が脅かされなければならないのだろう。経済活動の停滞によって職を失い、生活がままならなくなった人を差し置いてまで開催する意義があるのか。医療従事者にさらなる負担をかけることにうしろめたさはないのだろうか。
<略>
 スポーツ関係者と話をすると、ほとんどの人はまるで腫れ物に触るように東京五輪の話題を避けた。話題がふと東京五輪に移りそうになればスッと話を変える。この話題を逸らす仕草にふれるたびに感じた寂しさは今でも忘れない。
 議論を戦わせてもいいから真正面から話をしたい。スポーツに関わる者同士で今こそきちんと語り合おう。こっちとしてはその用意ができているのに、なぜ話をしようとしないんだ。
 もどかしかった。自らの主張がかき消されてゆくようで、虚しかった。
 ときに「不都合なことは見えないフリをして、それでいいのか?」と、苛立つこともあった。擁護してくれる人はいたものの、そのほとんどはジャーナリストやスポーツ以外の研究者で、スポーツ分野の当事者と名乗れる人は皆無だった。それが歯痒かった。
 あのころを振り返れば、東京五輪を否定的に捉える意見が多数を占める現在の趨勢は、隔世の感すらある。
……
 今、世間は「オリンピック幻想」から醒めつつある。新型コロナウイルスの蔓延が東京五輪を覆っていたベールを剥ぎ取り、多くの人がその実態に気づき始めている。肥大化したオリンピックの存在に、ようやく懐疑的なまなざしが向けられるようになった。コロナ禍で生活が限定されるなか、なぜスポーツの祭典であるオリンピックだけが「特別扱い」されるのか。そうした疑問を投げかける人が、長らく続く自粛生活への不満とともに増えてきているように思われる。
 それにともなって、スポーツそのものの価値もゆっくりと、でも確実に下落しはじめている。その気配を感じた水泳の萩野公介選手は、五輪組織委員会元会長である森喜朗氏の女性蔑視発言を批判した上で、「アスリートが一番、スポーツの価値を考えていかないといけない」と選手のあり方について持論を展開している。
 アスリートのみならず、関係者すべてがスポーツの価値を考え直す必要があると僕は思う。
 もし東京五輪が強行開催されればスポーツに対する世論の目はさらに厳しくなるだろう。たとえ開催が中止されたとしても、これまでの騒動がもたらしたスポーツに対する懐疑のまなざしは、そうかんたんには解消されないはずだ。今の情況をただ静観すれば、もしかすると50年後には「スポーツなんてやってんの? めずらしいねえ」という人が出てくるかもしれない。大げさに思われるかもしれないが、それほどの危機感が僕にはある。

<以下略>
 
 平尾さんは5月1日には、以下のようにTweetしている。これも引用をお許し願いたい。

https://twitter.com/rao_rug/status/1388415062163873793

余計なことを考えずに競技に集中すればいい。おそらくほとんどの指導者は選手にそう話しているだろう。感受性が強い選手は、社会の動向を感知しつつもこの言葉にすがり、不安や困惑を抱え込んでいると想像する。
10代の頃から競技に集中してきた選手のほとんどは、僕もそうだったけど、社会の仕組みを知るための基礎知識が欠如している。だから五輪をめぐる今の現状をどう判断したらいいのかわからない。スポーツしかしてこなかったら、畢竟そうなる。
でもね、今は知識がないからどうしていいかわからないなどと言っている場合ではありません。わからないながらも、ふと感じることや考えたことを大切に、自分がどうしたいかどうすべきを発信すべきだと僕は思います。
五輪ってなんだったのか。自分にとって、社会にとってスポーツってなんなのかを、この機会にじっくり考えて欲しい。今、当事者としての責任を果たさないと、大変な事態を招きかねません。
選手からの発信を促すべく、まずはOBや指導者など元アスリートが声を上げませんか。IOC組織委員会や政府のずさんな対応をみて、それでも五輪をやるべきだと本当に思ってますか?

 「余計なことを考えずに競技に集中すればいい」——テレビに出演していたある五輪メダリストも「やると決まったら、つべこべ言わずにやる。アスリートにはそういうところがあります。」と言っていた。しかし、わき目をふらず、目標に向けて邁進することをよしとするこの「美徳」はアスリートに限った話ではない。「とりあえず今自分ができることをやろう」と、病院の医師も、看護師も、学校の教師も、役所の職員も、飲食店の店主も、……、その他諸々、みんなそう思ってこのコロナ禍で働き暮らしている。一般の人には実際上も、そう思うしかないのだ。

 では、市井の人々にはどうにもできない「余計なこと」を考え、決める(はずの)立場にいる人々はどうなのか?
 組織委の遠藤利明副会長は5月1日のテレビ番組で「日本の状況や対応を考えれば十分開催できると思って取り組んでいる」「(中止する場合の判断期限や中止の可能性について)考えていない」と言っている。
 その3日前、橋本聖子・組織委会長の方は、「開催をすることは合意しましたが、安心安全な大会開催に向けてどのように行うかを考えていきたい」と話した。
 スガ首相は、「IOC国際オリンピック委員会)は、東京大会を開催することをすでに決定しています」(23日)、「(組織委が要旨した看護師約500人の確保について)休んでいる方もたくさんいると聞いている。可能だと考えている」「(医療関係者の反発があることについて)そうした声があることは承知している。支障がないように全力を尽くしていきたい」(30日)と言った。
 IOCのバッハ会長にいたっては、「歴史を通して、日本国民は不屈の精神を示してきました。逆境を乗り越えてきた能力が日本国民にあるからこそ、この難しい状況での五輪は可能になります。」(28日)だ。
(※訳はHUFFPOST:日本国民は「五輪も乗り越える」バッハ会長の“発言”に批判噴出 ⇒ 実際はこう言っていた | ハフポスト
「バッハも休み休み言え!」(のら猫 寛兵衛さん)
のら猫 寛兵衛:SSブログ

 当事者である(はずの)人々にとっても、「余計なことを考えずに」とにかくやろう、全力を尽くそう、だって、そうするよりしかたないじゃないか……式の発想(習慣)は同じように見える。五輪列車は突っ走っているが、運転席には誰も座っていないのだ。

 「余計なこと」は実は「余計」ではなく、一人ひとりの人生にかかわる大切なことだ。前回の「政治的なこと」も同じだと思うが、それを「余計なこと」に仕分けし、思考停止するよう調教されてきた結果、たとえば自分がコロナに感染して生命の危険を感じるとか、営業停止や時間短縮などを繰り返されて生活の糧を失うとか、身辺にそういう人がいるとか、当事者(近親者)として「存亡の危機」に直面するようなことでもない限り、他人事だから知らない、想像しない、自己責任だ、で済ませるよう、感覚を麻痺させられてきた。

 平尾さんの問題提起を真摯に受けとめるアスリートが増え、市民の間に理解や支援が広がることを願う。実務的に言って、五輪開催は無理だと思うが、何もしないで寝ていて中止が決まるわけではない。今は、「余計なこと」をあえて考え、「余計なこと」をあえてする人が増えることが大切になっている。そういうつながりを広げていく一助になればと思う。




↓ よろしければクリックしていただけると大変励みになります。


社会・経済ランキング
にほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
にほんブログ村