ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

「寄り添わない」――誠実な言葉を求めて

 先日本屋で雑誌を眺めていて『地平』という名の月刊誌の存在を知りました。まだ創刊されたばかりのようです。表紙に掲げられた「コトバの復興」というタイトルが目に止まりました。何で「言葉」がカタカナなんだろうと思いながら中を開いて少し読むと、意味しているところが何となくわかりました。はっきり言って、昨今の政治家やメディアのあいだにはびこる「ことば」は、「言霊」が宿るとされる言葉の重みがなく、コミュニケーションとしての機能さえ失い(破壊して)、ほぼ一方通行を繰り返しています。編集者が、これに漢字どころか、平仮名の「ことば」さえ与えず、「コトバ」としたのは、そこまで堕ちている現実を告知するものなのでしょう。これは「ことば」の陳腐化といったレベルではなく、「ことば」を装った別もの――詐欺であり、欺瞞であり、不誠実のかたまりだからです。

 そういった理解でまちがっていなければ、小生もこの趣旨に大賛成です。閣僚や官僚たちが国会や記者会見で繰り返す意味のない(通じない)「定型句」には日々うんざりしています。最近は岸田首相のぶらさがり(会見)がTVに映ると、音を消すか、電源を切るかで対処しています(笑)。記者が鋭い質問でも飛ばしてくれるのならまだしも、これもナシでは、単にお経読みに付き合わされるだけです。これを見る価値のあるもの、聞くに値するものに変えていくのは大変なことですが、それは岸田さんや記者、メディアのありかたを責めるだけでは到底困難でしょう。『地平』の中で沖縄タイムス編集委員の阿部岳(たかし)さんはこう書いています。

……在京メディアの政治部記者と沖縄の記者では、見ている景色がまったく違うと実感する。東京で『丁寧に説明し沖縄側の理解を得る』と述べた歴代の政権は、現場では力ずくで新基地建設を進めていた。警察官や海上保安官は見えないところで抗議する市民の体を痛めつけ、強制排除をしていた。
 同じ景色を見ているのに、まったく違う報道になることもある。2016年、名護市の海岸に米軍輸送機オスプレイが墜落した事故を、日本のほぼすべてのメディアが「不時着水」と呼んだ。事故発生の少し後に米軍がこの言葉を使い始め、それが防衛省、そして日本メディアに伝染した。
 衝撃でバラバラになった機体を、私はこの目で確認した。沖縄メディアはすべて墜落と書いた。日本メディアもヘリの空撮などで見ていたにもかかわらず、事故を矮小化したい日米の思惑をそのまま受け入れて不時着水と報じた。米メディアは米軍準機関紙まで含めて墜落と表現した。日本メディアの追従ぶりは際立っていた。……
 ……メディアが出直すには、どうすればいいだろう。発する言葉に力を持たせるためには。
 まず、手垢のついた言葉を問い直すところから始めるしかない、と私は考えている。
 権力が使う言葉で言えば、「辺野古が唯一の選択肢」「負担軽減」などは思考停止の空念仏と化している。反対の民意を暴力で排除して新基地を建設する行為を「丁寧な説明」と呼ぶに至っては、日本語の意味を破壊し、言葉への信頼を根底から掘り崩している。メディアが権力の言葉を受け流さず、実質を問うていくことが一つ。
 もう一つ、メディア側が当たり前のように使ってきた言葉も、前提を見つめ直すときが来ているように思う。例えば「平和憲法」はどこからやってきたか。連合国総司令部(GHQ)最高司令官マッカーサーは、日本から切り離した沖縄に重武装の米軍がいるから、日本には軍隊がなくてもいいのだと明言していた。日本の「平和な」憲法は沖縄の「平和でない」状況のおかげだった。
 そうした矛盾や日本側の特権性を、リベラルなメディアは正視しないまま護憲を訴え、後退に次ぐ後退を強いられてきた。今や、日米当局は台湾有事があすにも起きるかのように危機をあおり、沖縄周辺で米軍に加えて自衛隊の増強まで進めている。
 中国との軍拡競争で、偶発的衝突の危険性が高まる。武力を紛争解決の手段として放棄する平和憲法の理念の実現は、今こそ切実に求められている。ただ、それには理念からもっとも遠くにあり続けてきた沖縄の苦い現実と向きあうことが欠かせない。
 沖縄と向き合おうとする時、「良心的」な日本メディアの人は「寄り添う」という表現を使ってしまいがちだ。私も幾度も聞いた。最後に、この言葉を反面教師として沖縄との向き合い方を考えたい。
 寄り添うという言葉を選ぶ者は、前提として自らを強者の側に置いている。確かに日本人、そしてメディアは強い立場にいるのだが、そのことに無自覚なまま、弱者のところまで「降りていってあげる」という自分をアピールするのは傲慢な態度だ。
 本当に寄り添えるのかどうかにも疑問がある。弱者のそばにずっととどまれるのか。強い立場にいながらにして、弱者の立場や心情を真に理解することはできるか。
 メディアとしての職責は添い遂げることよりも、弱者、ここでは沖縄にのしかかっている問題を日本社会に広く、正確に伝えることのほうにある。ただ伝えるのではなく、現実を少しでも変えることのほうに。そのために、本気で結果を追及する取材と伝え方が求められる。
 沖縄の問題は人口の99%を占める多数派の日本人がつくりだし、固定してきた。1%に過ぎない沖縄の人々だけでは解決できない。沖縄に寄り添っている場合ではない。自ら問題を解決する責任が、日本人にはある。
 翁長(雄志・前沖縄知事 故人)は問うた。「沖縄が日本に甘えているのか、日本が沖縄に甘えているのか」。権力や保守の側だけではない。メディアやリベラルの側もまた、沖縄に甘えず、倚りかからずに、自分の足で立たなければならない。
 私自身のことだ。基地ばかりか、戦争の危険まで再び沖縄にしわ寄せしようとする自らと同胞日本人の姿がますます浮き彫りになっている。日本社会を変える言葉を、沖縄の地でずっと探している。
     (阿部「沖縄に倚りかからず」、『地平』2024年7月号、65-67頁)

 中身を見ていたら、何となく岩波書店の月刊誌『世界』に似た印象をもちました。執筆陣や装丁が似ているというだけではなく、編集者自身が『世界』の前の編集長だったと後で知って、なるほどと思いました。ちょっと気になるメディア誌が現れたと思います。


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