ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

「やってる感」

 一昨日父親を検査のために総合病院へ連れて行った。検査がスムーズに進めば昼過ぎには終わったのかもしれないが、なんだかんだで一日がかりとなってしまった。これは父親のような高齢者には負担が大きい。終盤にはバテバテで一段と不機嫌になり、医者や看護師にも相当難儀な思いをさせてしまった。
 合間に待合室のテレビを眺めていると、まあ相変わらずコロナ関連のワイドショーやおしゃべりやらが続いているが、ひとつ気がついたことがある。先週には目にしなかったと思うのだが、小池百合子東京都知事がスポットCMに出てきて、「ご協力をお願いします」と…。それが何度も繰り返されるのである。最初は、政府広報などと同じレベルだと思っていたのだが、こうも短時間に繰り返されると、「そうかあ、選挙かあ…。」という気がしてくる。たぶん間違いないだろう。なぜなら、政府広報の類に通常は総理大臣は出てこないわけで、だいたい有名芸能人か何かのキャラクターが出てきてメッセージを添えれば、ほぼ広報の「目的」は達成できる。それをわざわざ前口上で「東京都知事の…です」と述べるわけで、これは選挙のテレビCMの入りと同じである。7月の知事選までにはまだ間があるとはいっても、選挙前にこれだけ大っぴらにメディアで顔を売ることができる機会を利用しない手はない……というところではないか。本人の発案なのかどうか知らないが、公金を使った「私物化」という意味では、「桜を見る会」と基本的に変わるところがない。もし、そうでないなら、誰か別の人物かキャラクターに同じことを言わせるべきだ。
 
 周りを見渡すと、この種の不自然な「やってる感」の演出、「わざとらマン(わざとらウーマン)」(ちょっと古過ぎるか!)が続出していることに気づく。新宿・歌舞伎町では都の職員?が外出「自粛」、帰宅を呼び掛けて街頭を練り歩いたりしている。(テレビの前だからって)自警団か何かのようにそんなに大人数でぞろぞろ歩かなくてもいいのではないか。あるいは、福岡市役所では、毎週金曜日の正午に、最前線で奮闘している医療関係者に感謝の一斉拍手を送る取り組みが始まったらしい。ニューヨークやパリですでに同じことが行われているようだが、こういうのは行政が音頭をとると意味が変わってしまう(行政がすべきことは別にあるはずだ)。もう一言余計なことを付け加えれば、福岡市長は総理大臣に近い人物だという話がますますこれを胡散臭くさせる。

 現在のこの国の「やってる感」「わざとらマン」の“総帥”(“元凶”?)は、もはや言わずもがなである。
「しんちゃん、宿題、やったのー?」「終わったー!」(……やってない!)
「しんちゃん、休業補償しなくていいの? みんな不安がってるよー。」「『雇用と生活は断じて守り抜く』って言ったー!」(………えっ!)
「しんちゃん、総理大臣なのよ! 失敗したらどう責任とるのー?」「責任とればいいってもんじゃない!」(ええっー!)

 コロナ禍はこの国だけの問題ではないけれど、まずは一国、一都道府県、一市町村などの行政、自治体のレベルから家族、個人のレベルまで、組織的にそれぞれが最善の策をとっていかなければなかなか収まらないだろう。かりに、他国で収まっても、収束しない国が一国でもあればすぐに再燃する恐れが十分にある。このままだと「なぜ日本だけ感染が収まらないんだ!」と言われかねない。そのとき、またしても統計データをごまかして、マスコミを統制し、「世界のみなさん、大丈夫、日本は安全です。さあ、オリンピックをやりましょう!」などと言うのだろうか?