ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

英語と日本人――発音と中身

 昨日TVニュースで、小泉防衛大臣がシンガポールで開催された安全保障会議でスピーチをしたというのですが、内容はともかく、英語で、に力点がおかれ、その場面が何度か放映されているのを見ました。ネットを見ていると、「流暢な(英語)」という形容もされています。しかし、書面の英語(おそらくは小泉本人ではなく、他人が書いたもの)を読んでいるのであって、英語でディスカッションをしているわけではありません。「流暢に読む」というのは日本語としておかしいこともないのでしょうが、違和感はあります。自分の頭をつかって臨機応変に英語を話す姿をこそ、「流暢に」と形容すべきと思えるからです。

 これは自慢話のように受けとられると困るのですが、昔、学校に勤めていた頃、用があって英語の先生の部屋に行くと、ALTの外国人が在室中で、小生としては珍しく、「はじめまして」と話しかけ(決して流暢ではなく、日本語訛りで)、簡単にこちらの自己紹介をして、ご出身は?と尋ねたら、英国だとおっしゃるので、「今、ちょうど授業でイギリスのことをやってます。次に会ったときには、いろいろと教えてくださいね。では、また……」と英語で言って、部屋を後にしたら、あとで、一人の英語の先生が、「すごいですね」みたいなことを言うので、「先生たちだって、しゃべってるじゃないですか」と言ったら、「私たちは『商売』ですから」と言うのです。英語でスピーチでもしたのならともかく、中高大で計8~10年以上英語を習っていて、「商売」じゃなかったら、片言で英語のあいさつもできないみたいに思われてるのかな(つまり、バカにされてんのかな)とも思いましたが、せっかく「褒めて」るのに何だ、と思われても困るので、へらへらしながらその場を取り繕ったと思います。
 実は恥ずかしい思いをした「失敗?事例」もありまして、これも昔、生徒を引率して、他県のとある駅のホームにいたら、あたりをきょろきょろと見まわしながら不安そうにしている外国人旅行者の夫婦を発見したので、何かお困りですか、と英語で尋ねたら、乗り換えがわからないというような話を返された(ような気がした)ので、それじゃ駅員のいるところまで案内するので付いてきてください、というつもりで、Follow me. と言ったら、二人は反対方向の別の日本人のところに行ってしまって、生徒が「せんせー、付いてこないじゃん」「あっちに行っちゃったよー」などとニヤニヤするので、まっ、こういうこともあるかな、ダハハハ……とか、格好悪くて笑ってごまかすしかありませんでした(おっかしいなあ 苦笑)。

 この国では、英語は一般的な日本の人(日本語を母語とする人)が習得すべき「第一(の)外国語」ですが、それはたとえば、同じ「知的技能」でも、難しい漢字が読めるとか、難解な方程式が解けることとは異なる面があるように思います。もっと言えば、同じ外国語でも、ロシア語や中国語を話すことと英語を話すことは決して同等には扱われないと思うのです。これは(ロシア語や中国語とちがって)英語が実務的に世界共通語の役割を果たしているからという理由だけでなく、ある種特有の「イデオロギー」を纏っているからだと思います。

 先週の新聞におもしろい記事がありました。現在米国ニューヨークに在住する作家の平野啓一郎さんは、英語の発音の良し悪しの方が、話の中身よりも優先的に評価されるのはおかしいと述べています。
平野啓一郎:英語のうまさとは 平野啓一郎さんが大切にしたい雑多な発音 | 毎日新聞

 日本で「あの人は英語が上手い」と言われる時、大抵の評価ポイントは、発音である。二人の日本人英語話者がいて、一方は話の中身は空っぽだが、発音がネイティヴ並であり、もう一方はかなり込み入った内容を、強い日本人訛りで話したとして、どちらが英語が達者かと問うたなら、前者という人が多いのではないか。

 しかし、英語話者は何もイギリス人やアメリカ人だけでなく、フィリピン人もシンガポール人もインド人もナイジェリア人も英語を話すのであり、更に言えば、英語が結局、世界共通語であることは否定できない。
 例えば、スロヴェニアの哲学者スラヴォイ・ジジェクの英語には、独特の強烈なアクセントがあるが、しかし、マシンガンのような早口で、資本主義やラカンの精神分析について論じる彼の英語を、ヘタだというのは不当であろう。
 日本人が、英語のネイティヴでもないくせに、アクセントの強い英語を話す人を、何となくバカにしているのは、一つに、よく聞き取れないことの劣等感による、心理的な防御反応であろう。
……

 ……私は、日本人の英語のアクセントを論(あげつら)うことには賛成できないし、発音をフェティッシュに特権化してしまうことにも反対である。
 逆の立場で考えてみなければならない。私たちは、外国人が日本語を日本人のように話せない時、それをバカにするだろうか? 大半は、勉強して、話そうとしていること自体に一種の感動を覚えるだろう。
 他方、現実には、排外主義を背景に、スーパーやコンビニの外国人店員の日本語を揶揄し、見下すような輩も存在する。しかし、日本人は、関東大震災の時、通りすがりの人に「15円50銭」を発音させ、それが「正しく」発音できなければ日本人、できなければ「朝鮮人」として選別し、虐殺するという、世にもおぞましい蛮行に及んでいる。朝鮮人だけでなく、中国人や、地方出身の日本人までもが、その犠牲者には含まれている。日本人には、外国人の日本語の発音を笑ってはならない深刻な歴史的理由があり、それが十分に教訓化されていないことには、強い危機感を覚える。

 しかし、デリケートなビジネス上のやりとりや外交の場で話される英語となると、また別の議論が必要である。
 今年三月の日米首脳会談の冒頭の高市早苗首相の英語は、晩餐会の雑談程度ならともかく、一国の未来が掛かっているような外交の場では、明らかに不適切な稚拙さだった。問題は、そのことを指摘する人間が周りにいないことであろう。
 首相の英語の能力が、昨今また注目されているもう一つの理由は、経歴詐称疑惑の故である。アメリカで、民主党のパトリシア・シュローダー下院議員の下、連邦議会の「立法調査官」として勤務していた、というのが、かつてメディアに登場した時の説明だったが、現在では「Congressional Fellow(コングレッショナル・フェロー)」という英語の肩書きが用いられている。
 首相周辺の説明では、日本で本を出す時に、この日本語の肩書きを人に相談しつつ考案したとのことだが、その英語能力、活動実態との解離から、「立法調査官」とは「盛りすぎ」だろうと批判されている。そうした声が上がるのも、そもそも首相の言動の真偽を巡って、この間、絶えず疑問が呈されてきたからである。

 政治家に必ずしも高い英語能力が求められるわけではない。……スラスラ喋っていても、中身がないのであれば意味がない。よほど語学に堪能でない限りは、通訳をつけるべきである。……

 この国では、政治家に限りませんが、自分の経歴に米国留学の経験が入ると「箔付け」になり、(音声として)英語をしゃべれる(しかも「流暢に」)ことが何かすごいことのように思われてきました(認識上、両者が不可分に結びついている人も多いと思います)。しゃべれないよりはしゃべれた方がいいのは確かでしょうけれど、何をしゃべっているのか、その中身は、極端に言えばどうでもよかった。そのことが、Congressional Fellow(議会実務実習生?)を「立法調査官」などと「詐称」する(できる)背景になってきたように思います。



 ⇩よろしければクリックしていただけると大変はげみになります。

社会・経済ランキング
にほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
にほんブログ村