今日はまとまりませんが、最近新聞などを眺めて感じたことを徒然に記します。
このところ、子どもが事件・事故に巻き込まれて亡くなるケースが続いています。被害者の家族や同級生、関係者のことを思うと、気の毒でやるせない気持ちがします。高校生が亡くなった磐越道の事故も、事故に至った「要因」の重なりから、何か一つでも欠けていたら、今頃関係者はいつもと変わらない日常、というか、違った「今日」を過ごしていたかもしれないのです。その意味で、事故の検証と報道は、世間の俗物的な興味関心に応える終わり方ではなく、類似の事件・事故が起こる要素は何なのか、「人格」によらない「構造」にこそ力点をおいて報道してほしいと強く願っています。
しかし、残念ながら現実の報道は、警察による小出しの発表に左右されつつ、関係者に過失や違法性の認識があったかどうかに始まり、容疑をかけられた人間がどういう人格かなどを根ほり葉ほり取材し、「なるほど、こういう奴だから事件・事故を起こすのか」的な、当人の過去の言動や周囲の評価などの「材料探し」が続けられます。一般論ですが、昨日まで普通に暮らしていた人が(どんなに品行方正な人であろうと)、「容疑」がかかった途端に極悪非道の悪漢へ変貌します。子どもが被害者となった事件・事故に関わった場合は特にそうです。
以前、松本サリン事件で当初犯人であるかのような疑いをかけられた方が、「マスコミが報道で望む人間は、すごくいい人間か、すごく悪い人間の両極端だ。自分も最初は極悪な人間のように言われたが、容疑が晴れたとたん、手のひらを返したように善人扱いをされた。私はどちらでもない。普通の人間です」という趣旨の話をされていたことが非常に印象に残っています。
ですから、もし、再発防止に主眼をおくならば、事件・事故を容疑者の人格と結びつけても、どれだけの効果があるのか疑問です。容疑者は悪い人間だから事件・事故を起こす――そんな前提で報道をしていたら、おそらく冤罪だってなくならないはずです。報道関係者の中にも、同じ疑念をもち、この種の事件報道にうんざりしている人はいると思います。
他方、政治家の不祥事、特に与党の政治的スキャンダルの報道や視線はどうか。一般の事件・事故の報道と取材が、いわば「容疑者叩き」に走るのに比べると、同じエネルギーが政治家に向かわないのは、何ともアンバランスに映ります。これは個人的な印象ですが、「こいつは抵抗できない、反撃される心配がないから大丈夫だ」とみなした相手には、かさにかかって攻撃をし、衆前で「ごめんなさい」と言わせないと気が収まらない――そのような報道人や国民が、こと相手が政治家だと急にその矛先が鈍り始める。大メディアの経営陣も政治家から「反撃」されることを恐れ、「天の声」を発したりする。これでは政治家の側は、何か不祥事(犯罪を含む)が発覚しても、しばらくのあいだ「鉄面皮」や「厚顔」で通せば、世間はすぐに忘れると高をくくるでしょう。現首相などは、言行を含めてスキャンダラスな要素がてんこ盛りで、国と時代が違えば、就任早々にも辞任が不可避だったかもしれないのに、あんなに選挙で勝たせてしまったために、何か不祥事が持ち上がっても馬耳東風で、その空気は今や与党全体に蔓延しています。
でも、これは最終的には報道人の問題というより、世論(公論)の問題です。首相に「馬耳になってんじゃねえぞ!」と怒り、報道・言論人にはっぱをかけて、「真顔(マジ)」にさせることができるのは、民主主義社会であればこそです。そこが完全に骨抜きにされたら終わってしまいます。
今も日本に来る外国人は、日本は治安のよい、平和な国だと言います。どこから来日しているかにもよりますが、あながち外交辞令だけではないかもしれませんし、そうした声を紹介した報道を見ていると、ほめそやされていい気分にもなります。でもその「治安のよさ」は、一皮めくれば、国民一般の悪行は徹底して叩くけれど、「お上」の悪行には寛大ゆえの産物かもしれません。羊の群れは羊飼いには逆らわない。そんな日本人の姿が外国人には見えるのかどうか。「日本人は羊(と同じ)ですね」と言われたら、どっきりします。
昨日の新聞のコラムで伊藤智永さんは「お上はしばしば間違える」と書いていました。
土記:お上の事に間違いはある=伊藤智永 | 毎日新聞
……お上はしばしば間違える。役人は皆自覚しているが、決して間違いを認めない。真実や正義より守らなければならないものがあると信じ込んでいるからだ。
本当に信じているかも疑わしい。むしろ守りたいものにしがみつかないと、役人の存在意義はないとおびえているのだろう。
確定した刑事裁判をやり直す再審制度の見直し案が、自民党の審査で想定外にもめている。
法務省案には、裁判所の再審開始決定後、検察官が不服を申し立てる「抗告」制度が残っている。
それこそが誤審による冤罪被害の早期救済をいたずらに、いや非道かつ残虐なまでに長引かせてきた元凶だとして一部議員が猛反対し、抗告は「原則」禁止とするところまで押し戻した。なお骨抜きを封じる調整が続いている。
連休中「死刑制度を問う」という本を読んだ。著者は浄土真宗本願寺派前門主(第24代)で……驚くべき結論が導かれる。人を殺したら自らの命で償うべきだという世間の理屈と死刑制度は釣り合っていない。死刑がある本当の理由は、国家権力に逆らったら殺す「見せしめ」だというのだ。
「見せしめであれば、死刑になるのが真犯人かどうかも二の次となります。冤罪を減らそうとしない政府の態度も理解できます」
法務官僚が死刑を存置し、再審に抵抗する理由は、底流で通じている。……
なるほど、この国では「平和」と書いて「ひつじ」と読むのかもしれません。
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